上野国山上(やまかみ)氏(20)

  義貞 いよいよ再びの鎌倉へ

 

 ※新田義貞の軍に、上野国山上保の山上六郎左衞門という在郷武士がいました。

  「義貞の16騎党」の一人でした。

 久々に新田義貞の登場です。

 今回の「中先代の乱」によって再び戦が続く世は戦いの日々を迎えます。

 義貞の動向に六郎左衞門を思い重ねて、原稿をおこし続けます。

 

  中先代の乱

 後醍醐天皇のめざすは、「天皇中心の世の中への回帰」「天皇専制の復興」です。

 足利尊氏のめざすは、「武家社会のへの回帰」「幕府の再興」です。

 

 両者決別の契機となったのが「中先代の乱」です。

 ※中先代とは、先代を北条氏、後代を足利氏、その中間という意味。

 

 元弘3年(1333)5月22日、新田義貞が得宗北条高時を自刃に追い込み、約150年間続いた鎌倉幕府は滅びます。

 ※北条最後の得宗は北条高時。最後の執権は北条(赤橋)守時。

 将軍守邦親王は 宮(皇族)将軍。将軍とは名ばかりで実権はもたなかった。

     (鎌倉時代の源氏将軍は3代で滅し、後摂家・親王を招き将軍職につけた)

  ※守時は5月18日、州崎の戦い(現在の湘南深沢駅あたり)で自刃。

  ※得宗は北条家の本家。執権は幕府の役職。

   得宗が幕府の実権を握っていた。

 

 北条幕府が倒れたとはいえ、各地で蜂起が頻繁に発生していました。

   ※筑紫国(福岡県東部)では、建武元年(1334)正月、規矩(きく)高政(執権守時の弟英時の猶子)・糸田左近大夫貞義(元豊前国守護)が蜂起

   ※都では、建武元年(1334)10月、万里小路藤房遁世(出家)

   ※紀伊国では、建武元年(1334)10月、河内賊徒と佐々目憲宝僧正が蜂起

   ※伊予国(愛媛県)では、建武2年(1335)2月、駿河(赤橋)太郎重時(執権守時の弟宗時の子)が蜂起。同じ時期、野本貞政(前伊予守護宇都宮氏一族か)蜂起

   ※相模国(神奈川県)では、建武2年(1335)3月、本間(大仏北条氏被官)と澁谷一族が蜂起。大仏北条氏は北条政子の父時政の子時房の四男朝直を祖とする

   ※都では、建武2年(1335)6月、西園寺公宗(旧幕府関東申次役)が、北条時興(泰家。北条高時の弟)を擁して後醍醐天皇暗殺を企てる。

   ※北国(北陸地方)では、建武2年(1335)7月、北陸で名越時兼(越中守護)が蜂起。

    同じ時期、信濃では北条時行を擁した諏訪頼重らが蜂起(中先代の乱)。

   ※讃岐・備前・越中で、建武2(1335)11月に蜂起が続く

   ※各地の蜂起について『太平記』「巻第十四 諸國ノ朝敵蜂起事」に詳しい。。

 

 建武2年(1335)7月、北条時行が信濃で諏訪頼重に擁立され、鎌倉幕府再興の挙兵します。

 「中先代の乱」です。

  ※北条時行は鎌倉幕府最後の得宗北条高時の次男。鎌倉滅亡の際、鎌倉を脱し信濃の諏訪氏に身を寄せていた。(兄邦時は北条残党狩りにより刑死。享年9)

  ※時行の蜂起について、日本古典文學大系『太平記』「巻第十三 中前代蜂起事」の注釈に「建武二年七月十四日(略)信濃守小笠原貞宗と戦う」とある。蜂起は十三日以前のことか。

   ※諏訪氏は旧北条氏得宗家被官(得宗家所領諏訪の代官)。

   ※信濃国は旧北条得宗家の守護国。

  ※中先代の乱とは、鎌倉を支配した北条氏を先代、足利氏を後代。

   その間にあたる時行を「中先代」といい、時行の起こした乱を「中先代の乱」という。

 

 

 時行軍は、新政に不満をいだく信濃・相模・上野・武蔵・伊豆・駿河・甲斐等「五萬餘騎(『太平記』)」の軍勢で、上野国・武蔵国を通過し破竹の勢いで鎌倉に攻め上ります。

  ※太平記にいう「五萬餘騎」という数はともかく、東国には北条氏の影響力が強く残っていたことを物語っている。

  ※時行軍は、上野国利根川(蕪川:群馬県富岡市辺りを流れ利根川に合流)、武蔵国女影原(埼玉県日高市)、武蔵国小手指(埼玉県所沢市)、武蔵國国府(東京都府中市)、武蔵国井出沢(東京都町田)などの足利氏防御網を突破し、鎌倉へ進撃した。

   ※この道筋は、かつて新田義貞が鎌倉に攻め上った鎌倉道である。

 

 当時、鎌倉には鎌倉府将軍として成良親王が、鎌倉将軍府には尊氏の弟足利直義が執権としてその任にあたっていました。

 直義軍は時行軍を迎え討つのですが、武蔵女影ヶ原の合戦で澁川義季・岩松経家が、武蔵国府の合戦では小山秀朝が撃破され、これらの諸将は自刃してしまったのです。

   ※成良親王は本朝皇胤紹運録運録(ほんちょう こういん じょううんろく)には、後醍醐天皇の皇子として尊良・世良・恒良・成良・義良・護良・静尊・聖助・法仁(以下略)などが記されている。

    第4皇子か。

   ※鎌倉には、後醍醐天皇の命により元弘3年(1333)12月に設置された鎌倉将軍府があり関東を統治していた。

    そこには鎌倉(北条)幕府の時代と同様、宮・皇族将軍に該当する鎌倉府将軍には成良親王が、執権には足利直義がその任にあたっていた。

    すでに幕府(小幕府)の呈をなしていたのである。

   ※武蔵女影ヶ原(おなかげがはら)は埼玉県中南部の日高市の地

   ※武蔵国府は東京府中市

 

  ここに至って、7月22日、直義は急ぎ鎌倉を発って鎌倉道を武蔵国井出沢(東京都町田市)に出陣します。

   之に依り七月廿二日、下御所左馬頭殿(足利直義)、鎌倉を立ち御向ひ有りし。

    『梅松論』(『新田義貞公根本資料全』「新田義貞公篇」)より

 

  しかし、直義は時行軍の勢いを防ぎきれず西走します。後醍醐天皇の皇子成良親王や義詮(幼名千寿王)も鎌倉を脱し、直義の後を追ったのでした。

 

  二階堂の谷に幽閉されていた護良親王が、直義の命により殺害されたはこの時です。

 

(前文:之に依り七月廿二日、下御所左馬頭殿(足利直義)、鎌倉を立ち御向ひ有りし)

同日(竺仙和尚語録ニ據ルニ二十三日ナリ)薬師堂谷の御所において兵部卿親王を失ひ奉る。御痛はしさは申すもなかなか愚かなり。

    『梅松論』(『新田義貞公根本資料全』「新田義貞公篇」)より

 

  ※竺仙(じくせん)和尚:鎌倉時代末期、中国(元)から来日した臨済宗僧侶

   ※上記『梅松論』竺仙和尚によると、護良親王殺害は七月二十三日。

   ※護良親王の件は、日本古典文學大系『太平記』「巻第十三 兵部卿宮薨御事付干將莫耶事」、日本古典文学全集『太平記』「巻第十三 兵部卿親王を失い奉る事」「眉間尺釬鏌剣の事」に詳しい。  

   ※干將莫耶(かんしょう ばくや)とは、中国春秋時代楚国の刀名干將とその妻莫耶

   ※眉間尺(みけんじゃく)とは、干將と莫耶の子

 

 

 直義は、「始終、讎(あだ)ト成ラルベキハ、兵部親王ナリ」として、家臣に親王殺害を命じました。     

  ※兵部親王とは護良親王のこと

   ※直義が兵部親王殺害を命じたのは、淵辺甲斐守義博

 

  直義の驚愕は、時行挙兵(軍を事実上率いていたのは諏訪頼重)の進軍の速さだけでなく、時行軍を構成していた東国武士「五萬餘騎」(『太平記』)という軍勢数にもあったのでしょう。

 

 直義が一番恐れた(足利氏にとって「讎ト成ル」)のは、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を奉じ、北条鎌倉幕府を再興することにあったといわれています。

 

 直義は親王の存在こそが足利武家政権の樹立の「讎(あだ)」となると断じ、親王殺害の所業となったようです。

   ※鎌倉幕府は、第3代将軍実朝以後、摂関家の摂家将軍、皇族の宮将軍が将軍職に就いていた。実権は北条氏が握っていたが、幕府は中央との繋がりを持っていた。

   ※北条鎌倉幕府が再興されれば、足利尊氏・直義は最大の裏切り者として攻撃の対象となりうる。 

   ※護良親王の殺害は、この後、足利尊氏・新田義貞が対立した奏上に大きな影響を与え、後醍醐天皇からは朝敵と見なされることになる。

 

   時行軍は、建武2年(1335)7月下旬には鎌倉に入り一時的に鎌倉を制圧します。

   ※時行の鎌倉制圧の日については、7月の「16日」「22日」「23日」「25日」「26日」などの説がある。時行鎌倉制圧期間から二十日先代ともいわれる。

 

 一方、西走した足利直義は、8月2日直義救援のために京を発った尊氏軍と、8月6日三河国矢作(愛知県岡崎市)で合流します。

 

 尊氏は都を出立するに先立ち、「征夷大将軍」と「惣追捕使」の任命を後醍醐天皇に求めていました。

   ※尊氏の「征夷大将軍」要求に驚いた天皇・朝廷は、同年8月1日に急遽成良親王(鎌倉府将軍)を征夷大将軍に任じます。

    尊氏に征夷大将軍の位は渡さないという天皇の固い意思表示であった。

   ※征夷大将軍は、平安初期には蝦夷征伐のために任命された役職。

    頼朝の任命以後、武家の棟梁・幕府を開く権限を持つ者という意味になった。

   ※惣追捕使は、国内の兵粮の徴発や兵士の動員することのできる官職。

    頼朝が後白河法皇から「惣追捕使」と「征夷大将軍」の2つが認可され、鎌倉幕府という武家政権が成立した。

 

 後醍醐天皇は尊氏の離反を危ぶみ、幕府再興(開幕)の口実を与えることになると考えたのでしょう。征夷大将軍の位は認めませんでした。

 しかし、尊氏は天皇の勅命を待つことなく時行軍の鎮圧に五千餘騎(『太平記』)を率い鎌倉へ向かったのです     

   ※天皇は、この後間もなく征東将軍という東国を治める位を尊氏に授けた。

   ※尊氏は三河国矢矧(愛知県岡崎市)で直義の六万び軍勢と合流したという。

 

 尊氏・直義軍は建武2年(1335)8月18日には相模川を渡り、19日には鎌倉に入り、またたくまに時行軍を鎮圧し鎌倉を奪回したのです。

 

 8月30日、天皇は尊氏の功に対し従二位を叙します。

 

   ※尊氏は、建武元年(1334)正月5日には正三位に叙せられていた。

 

 尊氏は9月下旬、「足利尊氏、諸将ニ賞ヲ行フ」(『新田義貞公根本史料』「九月二十七日の条」) 、戦功の諸将に新田氏の東国の所領を没収し恩賞として与え始めたのです。

 

    ※天皇の許可なく守護の任命・東国支配を始めた。

   ※東国の所領は、義貞・義顕・弟脇屋義助が、元弘3年(1333)8月5日鎌倉幕府討幕の功により後醍醐天皇から拝領した地であった。

   ※上野国の守護職には上杉憲房が任じられた。憲房は尊氏の伯父にあたる。(尊氏の母上杉清子の兄)

   ※上野国の守護代は総社長尾忠房か

 

 義貞も尊氏の新田氏所領没収に対抗するように、「我分國越後、上野、駿河、播磨ナトニ、足利一族都共ノ知行ノ庄園ヲ押ヘテ、家人共ニソ行ハレケル」(『太平記』)という手段をとったのです。

   ※足利一族が支配権を持つ荘園を押収して、家来たちに分け与えた。

   ※この出来事によって、 新田と足利の間柄は悪くなったのである。

 

 10月、後醍醐天皇は天皇は尊氏に勅使を送り、「恩賞は朝廷にて行う」ことを伝え上京を促しますが、尊氏はこれに応じませんでした。(『新田義貞公根本史料』「十月十五日の条」)

  ※尊氏が上洛しないのは、弟直義の都に「公家竝ニ義貞ノ陰謀」を口実にしたという。

  ※尊氏が応じなかったのは、鎌倉を去ると再び北条氏の残党が

 

 そればかりか、「第ヲ幕府ノ舊址ニ造リ、是日尊氏之ニ徙(うつ)ル」(『新田義貞公根本史料』「十月十五日の条」)というのでした。

   ※鎌倉幕府庁は、源氏三代の大倉御所(45年間)・政子死後北条泰時(3代執権)代の宇津宮辻子(11年間)・幕府が倒れるまでの若宮大路(97年間)の3ヶ所に置かれた。

    尊氏が館を造ったのは若宮大路。

 

   ※鎌倉幕府時代、足利尊氏邸は鶴岡八幡宮の東1㌔ほどの浄妙寺附近の「大倉(蔵)にあった。

    この地は尊氏の父貞氏も住んでいたという。

  

 このようにして、尊氏は鎌倉に留まりました。

 通説では、この尊氏の行動を「天皇の親政からの離脱を意味する」ものと言われています。 

   ※鎌倉に留まったのは、北条氏の残党の侵入から鎌倉を守り、関東の安定をはかるためだったと言う説もある。

 

 十一月には、直義の名で新田義貞討伐の兵が西国・四国・九州諸国に募られます。

 直義の軍勢催促状です。

 

 時期を同じくして、尊氏が「讒言・逆徒」の義貞追討を奏上します。

 一方義貞も尊氏の「八逆」を犯した逆賊の誅伐を奏上しました。         

   ※『太平記』「巻第十四 確執奏狀事」に詳しい。

    ※尊氏の上奏文は「北条討伐の戦勝は義詮起つによる。その功績は我にあり」「讒言を労し帝を謀っている義貞を誅伐すべし」というような内容であった。

    ※義貞の上奏文にいう尊氏「八逆」とは

       「一、謀言、真を乱す(陰謀を含んだ言葉で真実を曲げる)」

               「二、上聞を掠める(天皇に申し上げる内容を偽る)」

       「三、司にあらあずして法を行う(その立場にないのに法を執行)」  

       「四、僭上(せんじょう)無礼(分をわきまえずに出過ぎた行い)」

       「五、違勅悖政(いちょくはいせい)(帝の意に背き、法にはずれた行い)」 

       「六、護良親王を陥いれた策謀」

       「七、護良親王を囹圄(れいぎょ)に苦しめる(親王を牢獄で苦しめた悪行)」   

       「八、護良親王を誅す(護良親王を殺害した蛮行)」  前略)新田左馬助義貞ニ上野・播磨兩國、子息義顕ニ越後

 

 ここに「新田足利確執」に至り、新田義貞と足利尊氏とが対立する図式ができあがったのです。

 

 両奏状めぐり天皇・朝廷はその判断に慎重を期したようです。

 尊氏の処遇をどうするかにあったのではないでしょうか。

 

 尊氏を討つことは全国に影響力を持つ足利一族や、尊氏を待望していた武士たちをも敵に回すことになります。

 尊氏の存在は、天皇の新政推進には欠くことはできなかったからなのです。

   ※加えて直義が発した数十通の軍勢催促状も天皇に進覧された。

    これらによって尊氏は謀反人とされ、討伐の対象となった。

    高氏は、従三位に叙せられた。

 

 天皇は決断します。

 尊氏討伐です。

 尊氏の護良親王の対処が決め手になりました。

 尊氏・直義に預けたとはいえ、天皇の許可なく親王を殺害したことです。

 いかに理由を奏上しても決して許されないことなのでした。

   ※高氏の足利氏は、2代足利義兼から代々の当主には官位を授けられ、高氏も15歳で従五位下の位階(位)を持っていた。

   一方義貞の新田氏は代々無位無官であり、義貞も30歳を過ぎても無位無官だった。

 

 ※次回は、建武2年(1335)11月19日、新田義貞は、醍醐天皇より朝敵尊氏追討の宣旨を賜り、鎌倉に向け京を発します。

 二度目の鎌倉攻めの話です。