「上野国(こうずけのくに)山上(やまかみ)氏」

山上氏、山上の地に基盤を築く

藤姓足利氏は、同じ秀郷流藤原氏の小山氏とともに北関東を中心に東国武士団を形成していきます。やがて両者は「一国之両虎」といわれ、下野国の覇を争うことになります。

藤姓足利氏一族が勢力範囲を拡大する出来事が起こりました。

平安時代の後期天仁(てんにん)元年(一一〇八)七月廿一日浅間山の大噴火です。

平安時代後期に書かれた『中右記』(『群馬県史』通史編3)には次のように記されています。

(前略)今年七月廿一日より猛火山峰を焼き、その煙天に属し、砂礫国に満つ、灰燼庭に積る、田畠これにより巳にもって滅亡す、一国の災いいまだ此の如き事あらず、希有の怪により記し置くところなり……」と。

『群馬県史』通史編3に火山噴出物について、「浅間山の東十キロ圏では三百㎝、二十キロ圏では百五十㎝、高崎・前橋周辺には六十㎝、伊勢崎周辺で三十㎝、太田以東で十五㎝」と記述されています。新里付近の記録はありませんが、十五~三十㎝の火山噴出物があったと予想されます。

 赤城山南麓の田畑は壊滅的な被害受け、復興は絶望的で『中右記』のように「上野国内の田畑は滅亡した」と言われるほどの状況でした。

 

上野国山上(やまかみ)氏(2)

 赤城南麓の復興開発に立ち上がったのが、下野国足利荘から上野国赤城南麓にかけて基盤を築きつつあった藤姓足利氏の武士団でした。総力をあげて取り組んだようです。

 

(一) 女堀の開発

 藤姓足利氏の足利氏・淵名氏・大胡氏・大室氏などは、浅間山大噴火後間もなくの天元元年(一一〇八)頃、足利成行の父兼行(かねゆき)の淵名荘(伊勢崎市)五千町歩の開発復興に着手します。

女堀の掘削事業です。前橋市上泉町の旧利根川(現在の桃木川)から伊勢崎市国定まで全長十二~十三㎞に及ぶ用水路です。

 勾配差がわずかだったこと、複数の河川を横切らなければならなかったことなどから、難工事だったようです。そのためこの事業は未完成に終わったと言われます。現在その遺構は、伊勢崎市赤堀花しょうぶ園に見ることができます。

 

 (二)山上の地の開発

  開発された地は、有力貴族・寺社に寄進され荘園となったり、国衙領(公領)となったりしました。新里の地は、国衙領山上保が形成されました。

 ここを領した足利五郎高綱は、平安時代後期の一一六〇年頃、山上氏を名のり、山上五郎高綱となってこの地を支配しました。

 『新里村誌』には「高綱、寿永二年(一一八三)に山上城を築く」とあります。しかしその地は、現在の山上城跡(じようせき)公園の地かは不明です。善昌寺(新里町新川)、字堀之内(新里町山上)などの諸説がありますが明かになっていません。

 山上城の築城時期も、新里村誌説のほか、室町時代の後半応永年間(一三九四~一四二八)説、永享の乱(一四三八)以前の説などがあります。 正応(しようおう)四年(一二九一)辛卯(かのとう)八月に書かれたという山上氏とその家臣二二五名の名簿が『新里村誌』に掲載されています。

  このことから、山上城の地は不明ですが、正応年間(一二八八~一二九二)以前には築かれていたものと考えられます。