「上野国(こうずけのくに)山上(やまかみ)氏」

文書にみる山上氏 続編

  (二)  『吾妻鏡』にみる山上氏 (続々編)

 

その四  『吾妻鏡』 巻十一

 

  建久二年(一一九一)二月小四日の条

 

建久二年二月小四日癸未。

前右大將家二所

御參。辰剋。横大路於西行。先御參鶴岳宮。

御奉幣後進發給。

若宮大路南行。至稻村崎整行列。

御先達。次先陣随兵。~ (略) ~ 大

河戸四郎・山上太郎 ~(以下略)~

 

 

 建久二年(一一九一)二月小四日癸未。

前右大將家頼朝様は、箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる二所詣(にしよもうで)に出かけます。

辰刻午前八時頃に幕府前の六浦道横大路を西へ行き、まず鶴岡八幡宮へお参りです。

お祈りが済んだら出発です。

若宮大路を南へ進み、稲村ガ崎で行列をそろえました。

お参りのリーダーの先達。

次ぎに先払いの儀杖兵は

~(略)~大河戸四郎・山上太郎~(以下略)

 

  頼朝は、二所詣に向かいます。

この二所詣は、箱根権現と伊豆山権現、加えて三島神社に詣でることをいいます。

いずれも頼朝が平家討伐を祈願した神社だそうです。

 この頼朝二所詣の儀杖兵に山上太郎の名があります。山上太郎とは、山上太郎高光でしょう。

頼朝の二所詣は、『吾妻鏡』文治四年(一一八八)正月大十六日壬子(みずのえね)の条に、

 

「二品御參鶴岳宮。 還御之後。 被始二所御精進。」

 

二品、鶴岳宮へ御參(ぎよさん)す。

還(かん)御(ご)之(の)後(のち)、二所の御精進を始め被(らる)る。

 

とあり、この時期から始めたものです。

この二所詣は鎌倉時代を通して、将軍の年中行事として続けられていました。

 

 

その五 『吾妻鏡』 巻十五

 

 建久六年(一一九五)三月大十日の条

 

建久六年三月大十日乙未。

將軍家爲令逢東 大寺供養給。着御于南都東南院。

自石淸水。 直令下向給云々。

 供奉人行列

  先陣

  畠山二郎

  和田左衛門尉〔各不相並〕

 次御隨兵〔三騎相並。各家子郎從同着甲冑。 列路傍。

 其人數所随合期也。〕

   江戸太郎~(略)~ 山上太郎~(以下略)

 

建久六年三月大十日乙未。

將軍家、東大寺供養に逢令め給はん爲、南都東南院于着御す。

石淸水自り、直(じか)に下向令(せし)め給ふと云々。

  供奉人の行列

  先陣

    畠山二郎

    和田左衛門尉〔各、相並不〕(おのおの あいならばず)

   次に御隨兵〔三騎相並び、各、家子、郎從同じく甲冑を着け、路傍に列す。

    其の人數合(ごう)期(き)に随う所也。〕

      江戸太郎~(略)~ 山上太郎~(以下略)

 

 頼朝は、北条政子・頼家・大姫を伴って、治承四年(一一八一)平氏によって南都焼討ちによって焼失した東大寺再建供養(大仏殿落慶供養会)に上洛します。

京都石清水から奈良東南院に入ります。

国の護国の寺である奈良東大寺の再興は朝廷にとっても重要な課題であったのです。

 

 この行列の随兵として、山上太郎高光の名があります。

大胡太郎(重俊)、深栖太郎らの名とともにみることができます。

 

 山上太郎高光の名が、『吾妻鏡』に登場するのは、この条が最後となります。

 

 

その六 『吾妻鏡』 巻二十

 

 建暦三年(一二一三)二月大十六日の条

 

 建暦三年二月大十六日丁亥(ひのとい)。

天晴。依安念 法師白状。謀叛輩於所々被生虜之。所謂。~ (中略)~宿屋次郎〔山上四郎時元預之。〕 ~(以下略)~

 

空は晴れています。

安念法師の白状によって、謀反人の一味をあっちこっちで生け捕りになりました。

~中略~宿屋次郎〔山上四郎時元が預かりました。〕~以下略~

 

 泉親衡(ちかひら)の乱の事後処理として、親衡に加担した宿屋次郎を山上四郎時元が預かったことが記されています。

 

この頃まで頼朝は建久十年(一一九九)一月に没し、嫡子頼家が第二代将軍となります。

しかし、頼家は北条氏によって伊豆修善寺に幽閉され、元久元年(一二〇四)七月暗殺されてしまいます。

そして北条氏の手によって実朝が第三代の将軍となるのです。

 

 この事件は、頼朝の幕府を支えた有力御家人北条氏と比企氏との権力争いでもあり、この後、北条氏が鎌倉幕府の実権を掌握することになるのです。

 

 第三代将軍源実朝の時代建暦三年(一二一三)二月、信濃源氏の流れをくむ御家人泉親衡が、第二代将軍源頼家の子千寿丸を擁して、執権北条義時の打倒を画策しました。

しかし、事前に発覚し義時に討伐されてしまいます。 

 

 この泉親衡の乱に与した宿屋次郎(信濃国の御家人か)を山上四郎時元が預かったというものです。

時元は、山上氏の系譜上では確認はできませんが、山上高光の子時光との関係が予想されますが定かではありません。

 

 

 その七 『吾妻鏡』 巻四十一

 

  建長三年(一二五一)正月小廿日の条

 

建長三年正月小廿日辛巳(かのとみ)。

天晴。將軍家 二所御進發也。

行列 前陣随兵十二騎~(中 略)~山上弥四郎秀盛 ~ (以下略)~

 

空は晴れています。

将軍様は箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でに出発しました。

その行列は前陣の儀杖兵十二騎 ~(中略)~山上弥四郎秀盛~ (以下略)~

 

  将軍家が二所詣に出発しました。

その行列の随兵に山上弥四郎秀盛の名があります。

 

  この時の将軍家は、第五代将軍藤原頼嗣です。

建保七年(一二一九)一月、第三代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で公暁(第二代将軍源頼家の子)に暗殺されました。

これにより源氏将軍の血筋が絶えてしまったのです。

 

そこで初めは摂関家の子弟、後に皇族を京から迎えて入れて将軍職に就かせました。

しかし実権は執権となった北条氏が握っており、将軍とは名ばかりでした。

 

 第五代将軍藤原頼嗣の二所詣に供奉した山上弥四郎秀盛も、時元同様、山上氏の系譜上確認はできません。

建暦三年(一二一三)の泉親衡の乱の始末に名がでた山上四郎時元から四十年ほど経過していますが、上野国山上氏の一族と思われます。

 

 

 文永三年(一二六六)七月二十日の条、

 

 文永三年七月大廿日庚戌(かのえいぬ)。

天晴。戌刻。前 將軍家御入洛。着御左近大夫將監時茂朝臣 六波羅亭。

 

 この条、第六代将軍宗(むね)尊(たか)親王(親王将軍)の京都帰還で『吾妻鏡』は終巻となっています。