上野国山上(やまかみ)氏(14)

新田義貞の挙兵 ~1~

 新田義貞も北条幕府方から離脱します。金剛山(千早城)の搦手に幕府方で在陣していた新田義貞は、戦線を離脱します。

 山上六郎左衛門の姿を追い求めて、弘安3年(1333)5月の義貞挙兵前から建武2年(1335)12月の「箱根竹下合戦」までの新田義貞の足跡を追ってみることにします。六郎左衛門は義貞とともに足利尊氏との戦いの日々を送ったと思われるからです。

懸ケル處ニ、新田太郎義貞、去三月十一日先朝ヨリ綸旨ヲ給タリシカバ、千劔破ヨリ虚病シテ本國ヘ帰リ、

(『太平記』「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」)

 義貞は、元弘三年(一三三三)三月十一日、後醍醐天皇の綸旨を受けたことを大義名分にして、上野国に帰ってきたというのです。

  

 その綸旨は、

被綸言稱、敷化理萬國者明君徳也、撥亂 鎮四海者武臣節也、頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威、積悪之至、天誅已顕焉、爰為休累年之宸襟、将起一擧之義兵、叡感尤深、抽賞可淺、早運關東征罰策、可致天下静謐之功、者綸旨如此、仍執達如件、

   元弘三年二月十一日         

            左少将(四條隆貞カ)

     新田小太郎殿

〔読み下し〕綸言を被つて称(いわ)く、化(か)を敷き  万国を理(おさ)むるは、明君の徳なり。乱を撥(はら)  つて四海を鎮むるは、武臣の節なり。   頃年の際(きょうねん  あいだ)、高時法師が一類朝憲を蔑如(べつじよ)し、  恣に 逆(ほしいまま)威を振るふ。積悪の至り、天誅已(すで)  に顕る(あらわ)。爰(ここ)に累年の宸(しん)襟(きん)を休めんが為に、  将(まさ)に一挙の義兵を起こさんとす。叡感(えいかん)尤  も深し。賞を抽(ぬき)んずること、何ぞ浅からん。  早く関東征罰の策を運(めぐ)らし、天下静謐(せいひつ)の  功を致すべし、者(てへ)れば綸旨かくの如し。  仍(よ)つて執達(しつたつ)件(くだん)の如し。

   と、『太平記』「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事(『群馬県史』資料編6)」にあります。

  この文書の奉者「左少将」とは、右資料編には「四條隆貞カ」という注釈があります。隆貞は、護良親王の側近で令旨の奉者となっていたといいます。

 

  このことから、後醍醐天皇の言葉(綸言)として、四條隆貞が義貞に伝えたと解することができます。ただ、この綸旨が出された頃、後醍醐天皇は、鎌倉幕府によって隠岐島に流罪となっていたようです。

 隆貞が護良親王の側近の奉者ならば、「後醍醐天皇の綸言」ではなく、「護良親王の令旨」と考えることもできるでしょう。護良親王は後醍醐天皇に代わって綸旨の効力を持った令旨を発したのでしょうか。

 

  一方、鎌倉幕府得宗足利高時は、長引く反乱にに、業を煮やしていたのです。他の言い方をするなら、幕府の力が弱体化していたともいえるでしょう。『太平記』「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事(『群馬県史』資料編6)」にその事態が記されています。

 

 高時は、反乱軍鎮圧のために関東武士団の派兵増員と、その軍資金の調達とを急ぎました。なかでも義貞の新田荘世良田に五日の間に六万貫を納めることを命じます。六万貫は今の金額でいうとおよそ七十億円ほどになるのでしょうか。高時のあせりを感じます。  

 

  義貞は、この命令を持ってきた得宗の使者を誅戮(ちゆうりく)します。この時点で義貞は反北条の姿勢を明確にしたのです。

 ここに義貞は挙兵するのです。

 

  同五(元弘3年)月八日ノ卯刻ニ、生品神社ノ御前ニテ 旗ヲ擧、綸旨ヲ披テ三度是ヲ拝シ、笠懸野 ヘ打出ラル

 (『太平記』「新田義貞謀叛事付天狗催越  後勢事」)

新田義貞は元弘三年(一三三三)五月八日午前六時頃、新田荘生品神社で挙兵しました。後醍醐天皇の綸旨を手に、北条氏追討のため百五十騎で鎌倉へと向かったというのです。

  義貞の挙兵に行動を共にした武士として、

 氏族ニハ、大館次郎宗氏、子息孫次郎幸氏(なりうじ)、 二男弥次郎氏明(うじあきら)、三男彦二郎氏兼、堀口三 郎貞満、舎弟四郎行義、岩松三郎経家、里 見五郎義胤(よしたね)、脇屋次郎義助、江田三郎光義、 桃井次郎尚義

  (『太平記』「新田義貞謀叛事付天狗催越  後勢事」)

このことから山上氏も義貞挙兵に加わったことがわかります。

 

  新田軍は、生品神社から西進し笠懸野を通り、八幡荘(高崎市)へと向かい、八幡荘で同族の越後新田一族・越後源氏・信濃源氏・甲斐源氏勢と合流したのです。

 翌九日、武蔵の国境で、鎌倉から脱出してきた足利高氏の嫡子千寿王(後の第二代将軍足利義詮(よしあきら))二百余騎とも合流し、関東一円の上野・下野・上総・常陸・武蔵の二十万余騎といわれる倒幕軍が鎌倉道を一路鎌倉へと南下したというのです。