「上野国(こうずけのくに)山上(やまかみ)氏」

文書にみる山上氏

 山上氏は、『平家物語』『吾妻鏡』『平治物語』『源平盛衰記』『太平記』『曽我物語』などに散見しています。

 

  (一)『平家物語』にみる山上氏

  鎌倉時代前期に成ったといわれる『平家物語』の「巻第四 十一段 橋合戦」に、平氏方の足利忠綱の配下に「山上(やまかみ)」の名が登場します。山上高綱の嫡子高綱と思われます。

 「橋合戦」は、治承四年(一一八〇)五月廿六日の「宇治平等院の戦い」の一場面です。

この戦が、源平の戦い(治承寿永の乱)の初戦であり、源氏による平氏追討の発火点となったのです。

 まず、『平家物語』の「橋合戦」までの経緯を追ってみます。

  治承四年(一一八〇)四月、高倉宮以仁王(もちひとおう)は、源姓でただ一人平氏政権にいた源頼政の進言により「平氏追討」の令旨を発します。この時期、父後白河法皇は平氏よって平安京の南の鳥羽離宮に幽閉されていたのです。

 しかし、翌月の五月に事が平氏に露見し、以仁王は三井寺(園城寺(おんじょうじ))に逃れましたが、高倉宮邸は平氏に襲撃されました。王は三井寺を出て、奈良南都大寺の援軍を求め興福寺へと向かいました。追う平宗盛・知盛軍は二万八千騎だったといわれます。平氏の追撃が始まったのです。

 同年五月廿六日、宇治で平氏軍に追いつかれ、王の軍は宇治平等院に陣をはり、宇治橋の橋板をはがし平氏軍と対峙しました。宇治川をはさんでの戦です。この場面が『平家物物語』で「橋合戦」といわれます。

 

 『平家物語』「橋合戦」のあらすじを記します。

この場面に、平氏方の足利忠綱の配下に従う「山上(やまかみ)」が登場します。

 平氏軍は以仁王の陣所宇治平等院を目前にした宇治橋に着いたのですが、宇治川は五月雨で水かさを増して渡河でかなかったのです。橋板のはがされた橋桁を渡って攻めるしかなかった平氏方は、頼政軍の矢を受け次々に宇治川へと落ちていきます。

 この様子をみて侍大将上総守忠清(藤原忠清)が、「宇治橋の上は壮絶な戦です。川を渡れば人馬が多く失われるでしょう。淀・一口(いもあらい)、あるいは河内道に迂回しては」と大将平知盛に進言進言します。 

 ※淀は現在の京都市伏見区    ※一口は現在の京都府久御山町

 「迂回する」とは。当時この辺りには、宇治から淀にかけて周囲十六㎞という巨大な湖「巨椋池(おぐらいけ)」がありました。昭和十六年に干拓事業が終了し、現在では京都市伏見区・宇治市・久御山町の一部となって、その面影はありません。

  平氏勢は五月雨の増水で宇治川を渡れません。そこで上総守忠清は、巨椋池の北縁を通って淀・一口への道を進言したのです。  

  そこに登場したのが下野国の住人足利又太郎忠綱です。忠綱は十七才、藤姓(とうせい)足利氏の当主足利俊綱の嫡子です。

  「迂回することは、天竺(てんじく)や震旦(しんたん)の武者を呼んでくるのと同じです。以仁王が南都に入ってしまうか、王に味方する吉野や十津川、南都の援軍が押し寄せてくるだけです。目前に敵がいるのです。瀬だ淵だ、川が浅いか深いか言っている場合ではありません。今、渡河すべきです。」と、大将平知盛に進言します。

  ※天竺はインドの呼称

  ※震旦は中国の異称

 忠綱は宇治川に馬を乗り入れます。続いた武将は、大胡、大室、深須、山上、深栖、那波太郎、佐貫広綱四郎太夫、小野寺禅師太郎、辺屋子四郎。忠綱の郎党切生六郎(桐生六郎)、田中宗太をはじめとして三百騎あまりが馬筏を組み宇治川を渡河したのです。

  ※大胡…又太郎忠綱より四代前の足利大夫  

               成行(しげゆき)の子成家の末裔、上野国勢多郡大 胡(前橋市大胡町)の住人大胡太郎

 ※大室…大室(前橋市大室)の住人

  ※深須…忠綱の父俊綱の弟で勢多郡深須郷

              (前橋市粕川町)の住人で深須三郎郷綱

 ※山上…忠綱の父俊綱の弟山上五郎高綱の子で、

               勢多郡山上郷(桐生市新里町)の住人山上太郎高光

 ※那波太郎…足利大夫成行の弟行房の孫で

                 上野国那波郷(伊勢崎市)の住人那波太郎弘澄

 ※佐貫広綱四郎太夫…同じく行房の末裔で上野国邑楽郡(おうらぐん)

      佐貫荘(群馬県邑楽郡明和町)の住人佐貫弥太郎広光の子佐貫四郎 太夫広綱

 ※小野寺禅師太郎…藤原秀郷の末裔首藤刑部丞道義の第三子の小野寺禅師太郎義寛

      の子で下野国都賀郡小野寺保(栃木市)の住人小野寺禅師太郎道綱

 ※辺屋子四郎…忠綱の祖父足利孫太郎家綱の第七子で

      下野国寒川郡戸矢古保(栃木市)の住人部屋古七郎太郎基綱

  ※宇夫方次郎…下野国安蘇郡意部郷(佐野市)の住人

 ※切生六郎…上野国山田郡桐生(桐生市)の住人

 ※田中宗太…上野国新田郡綿打村(太田市)田中の住人

  足利忠綱が「橋合戦」に参戦したのは、当主足利俊綱にかわって一族(山上氏を含む藤姓足利氏)を率い、京都大番役として上洛在京していたものと思われます。

 鎌倉時代の『源平盛衰記』にも『平家物語』「橋合戦」と同様な内容が記述され、足利忠綱の渡河や一門の「山上」が登場しています。