地域史探索

「上野国(こうずけのくに)山上(やまかみ)氏」

著者 : 沢入共有林役員の藤井実氏。元小学校教員であり、退職後に地域の歴史を調査・探究し、同書の執筆を手掛けています。

 はじめに

 「上野国の山上氏」。あまり耳したことのない氏ではないでしょうか。

その上野国山上氏(以後山上氏と記述)の居城「山上城」は、桐生市新里町山上の地に、昭和二三年に群馬県指定史跡となり、平成六年七月には整備され「山上城跡(じようせき)公園」となって残っています。

戦国の時代には、北条氏・上杉氏・武田氏等によってその覇が争われた地が、今では、早春の頃にはロウバイ、初夏の頃にはアジサイが咲き、年間を通して多くの人々の憩いの地となっているのです。

本稿は、およそ八四〇年ほど前その名を歴史上に表した山上氏について、先学や伝承をもとに整理したものです。これを機に、山上氏の存在に親しみを持っていただけたら幸いです。

 

 一章 山上氏とは

 「山上氏」は、平安時代後期十二世紀の中頃に足利五郎高綱が名のり「上野国山上氏」の祖となりました。高綱の曾祖父は、「藤姓(とうせい)足利氏」の祖足利成行(しげゆき)です。

この藤姓足利氏は、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の末裔(秀郷流藤原氏)の流派の一つです。

図1から、「山上(足利)五郎高綱」は、藤原鎌足を祖とする「藤原氏」の流れをも汲んでいることが読みとれます。

平安時代後期天元元年(一一〇八)七月二十一日、浅間山が大噴火しました。新里町地域でも十五から三十㌢の火山灰が積もったといいます。

国司の統治する国衙領であった新里の山上保も再開発が進みました。この山上保の開発にあたったのが、藤姓足利家綱の五男足利五郎高綱でした。高綱は山上保の保司として山上五郎高綱を名乗り、関東山上氏の祖となりました。

 

 

  ※足利氏には藤姓足利氏と源姓足利氏があります。

足利氏といえば足利尊氏を思い付くでしょう。尊氏は後者の清和天皇の河内源氏の流れを汲んでいます。藤姓足利氏は、藤原秀郷の末裔淵名兼行の子成行を祖としています。