上野国山上(やまかみ)氏(11)

『太平記』にみる山上氏

『太平記』は、作者・成立時期は不明ですが、後醍醐天皇が即位した鎌倉時代末期の文保2年(1318)2月から、幼くして足利幕府第3代将軍となった足利義満の補佐役に細川頼之が執事職となる貞治(じょうじ)6年(1367)12月までの約50年間を描いた歴史文学です。

  この『太平記』の建武2年(1335)12月11日の「箱根竹下合戦」の場面に「山上六郎左衛門」が登場します。

  鎌倉時代の元弘3年(1333)5月、足利高氏(後に尊氏)は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉を攻め落とします。ここに約150年間続いた鎌倉幕府は終焉となったのです。 後醍醐天皇は天皇を中心とした「建武の新政」を始めます。尊氏(幕府を倒した勲功として後醍醐天皇の諱・(いみな)尊治の偏諱(へんき)を受け名を改名)は、建武2年(1335)幕府第14代執権北条高時の遺児時行(ときゆき)が起こした「中先 代の乱」の鎮圧に、天皇許しを得ないまま都を離れ弟直義の治める鎌倉へと向かいます。天皇の帰参命令にも従わなかったのです。尊氏は建武政権から離脱したのです。

 これに対し、天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じます。義貞は官軍として鎌倉に向かいます。そして、義貞軍と尊氏・直義軍が箱根竹下(現静岡県小山町)で相見えます。この合戦を「箱根竹下合戦」といいます。

  新田義貞軍に「山上六郎左衛門」の名があります。

義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・ 川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・ 高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門 とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。

一様に笠験を付て、進にも同く進み、又 引時も共に引ける間、世の人此を十六騎 が党とぞ申ける。                     (『太平記』「巻十四根竹下合戦事」)

 

 この合戦は山上六郎左衛門等の奮戦も空しく、義貞軍は敗れ、東海道を西へ西へと退却し都に戻りました。建武2年(1335)12月30日のことでした。六郎左衛門は箱根竹下後も義貞に従軍していたと思われますが、その動向は定かではありません。 

 

  この山上六郎左衛門について、『新里村誌』に「正応(しょうおう)四年(1291)」に記したという「山上城主山上氏」が記載されています。

諸時哄家系図記時ニ天慶元秀郷参議同二年ニ至り平親王正門府御皇書依テ御鑑淳和□学両院別当藤原長者ニ補シ征夷大将軍従三位内大臣田原藤太秀郷公末孫上野国勢多郡山上城主山上六郎左衛門尉藤原秀直全家是実之祖先也。

  山上六郎左衛門尉藤原秀直

  山上七郎秀諦入道藤諦禅

一族    

  鏑木徳之藤原正忠

  山上新左衛門藤原正勝

  山上藤七郎正秀

宿老

  糸井太郎衛門直方

  鶴谷康右衛門忠藤

  鏑木主計正輝

  小沼三郎衛門光幸

       〈後略〉

 正応四年辛卯八月

 

という記録です。総数二二四名の家臣団とともに記されています。

 山上六郎左衛門は、「山上六郎左衛門尉藤原秀直」と思われ、山上氏の居城山上城の城主であることが読みとれます。

  この記録が作成されたのは、鎌倉時代後期の正応4年(1291)のことで、霜月の乱(一二八五年)後に作成されたものと思われます。

  また、新里町新川には、大同元年(八〇六)天台宗祖伝教大師の先達として上野入りをした宥海(ゆうかい)和尚が開山したという古刹「天台宗新光山妙珠院善昌寺(ぜんしょうじ)」があります。

 この古刹には五輪塔群があり、その中の一基が新田義貞の首塚といわれています。

  その古刹の文書に

其外戒名過去帳雖有之、

         末世紛失無心得書記

とあり、その中の一人に

一乗快孖   山上六郎左衛門

と記録されています(『新里村誌』)。

  桐生市新里町には、六郎左衛門にまつわる「土橋(つちはし)のおかめサクラ」があります。

 

  このシダレザクラは、二つの名前をもっています。古くは山上城にゆかりのある”お藤,

という人が、ここで花見の宴を催し、あまりの美しさに心酔し、自ら「お藤桜」と名付けた、といわれます。また、その後,おかめ,

という美しい人にちなんで「おかめ桜」と呼ばれるようになったのだそうです。

(『新里村の文化財』「土橋のおかめザクラ」説明文より)

 ”お藤“さんは、六郎左衛門の側室だったという言い伝えもあります。

  この「土橋のおかめザクラ」は、清水義男氏が桐生市の四百あまりの民話・伝承を収集し著した『ふるさと桐生の民話』「新里町の民話」に、「おかめざくら」として掲載されています。

  このように山上六郎左衛門は、『太平記』

や、身近な地域の『新里村誌』、善昌寺の文書、伝承にと、その名が言い伝えられている人物です。