上野国山上(やまかみ)氏(15)

新田義貞の挙兵 ~2~

 わずか150騎で挙兵した新田義貞が、どうしてこのような大軍を集めることができのでしょうか。

  義貞が「八幡太郎義家の後胤」「新田源氏の嫡流」とはいえ、官位は無冠でした。かつて、新田氏の祖源義重が源頼朝の挙兵を黙視したこともあって、新田氏は鎌倉幕府内で冷遇されていました。

 

 一方、足利高氏は、従五位下治部大輔(だいふ)(仏事外交を司る治部省次官)という官位を得ていました。足利氏第2代当主義兼の妻時子は、

  1. 北条時政の娘(頼朝の義妹)で、高氏の妻赤橋登子(のりこ)は執権北条守時の妹でした。

  下図このように、足利高氏は北条氏とのつながりも深く、鎌倉幕府内の有力な御家人の一人でした。

この頃の武士の官位は、本来官位の持つ実質的な意味は無く、武士の序列を示すものとして用いられていました。

 

 官位を持つ高氏の嫡子千寿王の合流は、参戦するか否かを決めかねていた関東武士には、自らの意思決定の契機となったことでしょう。

  また、先に述べたように、足利高氏は元弘3年(1333)4月16日京に幕府軍として着陣しましたが、その翌日には、幕府討伐の後醍醐天皇の綸旨を受けています。

 この綸旨をもとに高氏は、足利氏発祥の地といわれる足利荘近隣の武士たちに、鎌倉幕府討伐の軍勢催促状を矢継ぎ早に送ったといいます。

 

  鎌倉幕府の主従関係は崩れ、不満は蓄積していたこの時、綸旨を受けた足利高氏の軍勢派兵の催促状と、千寿王の参戦は、上野・武蔵の武士を、倒幕へと大きく舵をとる存在となったのでしょう。こうして新田義貞の軍勢は、『太平記』でいう「二十万」もの大軍勢になったのです。

 

  11日小手指河原、12日久米川、15日分倍瀬戸河原と進軍し、18日化粧坂・極楽寺坂の切通し、洲崎の三方から鎌倉を攻め、21日稲村ケ崎を突破し鎌倉市内に突入、22日鎌倉東勝に北条高時を自害に追い込み鎌倉幕府を滅ぼしました。

 

  この日の東勝寺付近の「葛西谷之合戦」に、新田義貞軍の一人として、「山上七郎五郎」の名が「天野經顯(つねあき)軍忠状」(ぐんちゅうじょう)(『群馬県史』「資料編6」)にあります。

 自同十一日廿一日迄于廿二日之葛西谷之 合戦、致軍忠訖、此等之次第御見知之上、同時合戦之間、新田矢島次郎・上野国住 人山上七郎五郎見知之間、就捧請文御注 進上者、為後証欲申賜御証判矣、仍言上 如件、  

   元弘三年十二月  日

               「一見了  花押(大館氏明) 」

 この文は、「軍忠状」といって軍功を大将や軍奉行に提出して、後日の論功行賞の証拠した書状です。

 日付からすると東勝寺の戦いのことと思われる「葛西谷之合戦」に、遠江国犬居(浜松)の地頭天野經顯(つねあき)が、自らの軍功を新田一族の大舘氏明(おおだちうじあき)に報告したものです。

  この時の經顯(つねあき)のはたらきを見知(けんち)したのが、新田矢島次郎と上野国住人山上七郎五郎だという内容です。矢島次郎は、新田氏宗家の分流矢島氏。山上七郎五郎は、上野国山上氏の一族と思われます。

 

では、義貞挙兵に山上氏は一族をあげて加わったのでしょうか。弘安8年(1285)11月17日の「霜月の乱」後、上野国は北条得宗家の守護国となっています。山上の地もその一部であったはずです。このことから、得宗方に与した山上氏があったことも十分考えられます。

七郎五郎は、義貞挙兵に新田一族軍に属していたか、新田氏以外の武士団の軍に属していたのかは不明ですが、元弘3年5月8日の義貞挙兵、鎌倉攻めに加わってたのでしょう。

 

 五月二十一日、稲村ヶ崎の戦いで、義貞が海に太刀を投げ入れたという場面は、『群馬県史』「資料編6」(『太平記』「稲村崎成干潟事」)には

 吾君(わがきみ)其苗裔(びようえい) トシテ、逆臣ノ為ニ西海ノ浪ニ漂給フ。義貞今臣タル道ヲ尽ン為ニ、 斧鉞(ふえつ)ヺ把(とつ)テ敵陣ニ臨ム、其志偏ニ(ひとえ)王化ヲ資(たす)ケ奉テ蒼生(そうせい)ヺ令安トナリ

と、これを龍神に祈り、

  自ラ佩(はき)給ヘル金作ノ太刀ヲ抜(ぬい)テ、海中ヘ投(なげ)給ケリ

この場面は『上毛かるた』「れ」の読み札 

歴史に名高い

         新田義貞

の絵札として使われています。

  こうして、後醍醐天皇の挙兵、足利高氏・新田義貞の幕府からの離反と挙兵が引き金となり、併せて幕府内の混乱とが相まって鎌倉幕府は倒れたのです。

 

 北条氏の最後については、『太平記』「巻十高時並一門以下於東勝寺自害事」に、

   此(ここ)一所ニテ死スル者、摠テ八百七十余人 也。此外門葉・恩顧ノ者、僧俗・男女ヺ 不云(とはず)、聞伝々(ききつたえ) 々泉下(せんか)ニ恩ヺ報ル人、世上 ニ促悲ヺ者、遠国ノ事ハイザ不知、鎌倉 中ヲ考ルニ、摠テ六千余人也。嗚呼(ああ)此日 何(いか)ナル日ゾヤ。元弘三年五月二十二日ト 申ニ、平家九代ノ繁昌一時ニ滅亡シテ、 源氏多年ノ一朝ニ開ル事ヲ得タリ。

とあります。

  北条高時は、一族八百余人とともに北条氏の菩提寺東勝寺で自害し、泉下で北条氏の恩に報いようとする者六千余人が鎌倉で命を絶ったというのです。『平家物語』にいうところの「諸行無常」を感じます。