義貞 再び鎌倉へ その前夜1

 ※新田義貞の軍に、上野国山上保に山上六郎左衞門 という在郷武士がいました。

「義貞の16騎党」の 一人でした。

今回も新田義貞の動向に六郎左衞門を思い重ねて、 原稿をおこし続けます。

 

新田義貞は、元弘3年(1333)5月22日鎌倉を攻略します。しかし義貞は、間もなく足利尊氏方の細川和氏等との騒乱を避け鎌倉を後に上洛します。

 ※五月是月は、この月、高氏は細川和氏等を鎌倉に向け遣わしたことを指している。

元弘3年(1333)5月7日六波羅探題攻略して間もなく鎌倉に向け遣わしたとのことであろう。

 

しかし、2年後の建武2年(1335)、義貞は再び鎌倉へ向かいます。

義貞の身の周りには何が起こったのでしょう。

 

(1)後醍醐天皇 建武の新政

元弘の変後の元弘2年(1332)3月に隠岐に配流されていた後醍醐天皇が、元弘3年(1333)6月都に還幸されました。

 ※『太平記』「巻第十一  正成參二兵庫一事付還幸事」には、6月5日に東寺に臨幸。翌6日に二城の内裏に還幸とある。

  ※この時、都は六波羅を落とした足利高氏軍の制圧下にあった。

 

北条氏の立てた光厳天皇はただちに廃され、後醍醐天皇による新しい政治「建武の新政」が始まります。

 ※光厳天皇とは北朝持明院統の天皇。後醍醐天皇は南朝大覚寺統の天皇。鎌倉時代、持明院統と大覚寺統から交互に皇位に就くことを定めていた。

 資料1   古の荒廃を改て、今の例は昔の新儀也。朕が新儀は未来の先例たるべし。

        (『詳説日本史史料集』「梅松論」)

と天皇は宣言されます。天皇の新しい政治「建武の新政」は進められます。

 

天皇が目指したのは、摂関政治でも院政でも、武家政治もありませんでした。

天皇自らが政治を行う天皇を中心とした政治でした。

 ※摂関政治とは摂政・関白を中心とした政治。

 

 ※院政とは、上皇(天皇の位を譲った天皇)や、法皇(出家した天皇)を中心とした政治。

 

 天皇は自ら中心の政治を進めるため、摂政・関白・幕府、役人の役職世襲を廃止します。

 ※貴族の世の中では、「位階」に相当して「官職」が決 まっていた。いくら有能であっても位階が低いと、高い官職になれなかった。

 

  ※後醍醐天皇はこの決まりを廃止し、有能な人材の登用を図り、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇の意思を速やかに政治に生かそうとしたのであろう。

 

 新政開始後、論功が始まります。

  これは、公武協調を原則にした親政のしくみづくりにも繋がることでした。

 

  ①足利尊氏のこと

  武士で最大の恩賞を得た者は高氏でした。

 元弘3年(1333)6月5日、後醍醐天皇が都に還幸された日の翌日、足利尊氏は内

昇殿を聽(ゆる)されます。             

  資料2  翌日六月六日、東寺ヨリ二條ノ内裏ヘ還幸成テ、其日先臨時ノ宣下有テ、足利治部大輔高氏治部卿ニ任ズ。舎弟兵部大輔直義左馬頭ニ任ズ。        

   (『太平記』「巻第十一正成參二 兵庫一  事付 還幸事」)

 

 高氏は治部省の次官から長官に昇官し、弟の直義は兵部省下の左馬寮長官に昇官の宣下を授けたというのです。

   ※この「翌月六月六日」の記述部分に、新田義貞は触れられていない。 

    義貞は、鎌倉から上洛の途中にあったのだろう。

    ※「二條ノ内裏」は、京都御所の300mほど南にあった富小路内裏。

    ※「二條ノ内裏ニ還幸」を『太平記』では「六月六日」と記しているが、「六月五日」と記す書物が多い。

     例『新田義貞公根本資料』など。

 

 同年6月12日、従五位上であった高氏は、従四位下左兵衞督に叙されます。 

 同年の8月5日には、高氏は従三位に昇叙し、武蔵・常陸・下総の国司に任じられます。

 この時、後醍醐天皇の諱の一字「尊」を賜り「尊氏」に改名しました。               

  資料3  先大功ノ輩ノ抽賞ヲ可レ 被レ 行トテ、足利治部大輔ニ、武蔵・常陸・下総 三國、舎弟左馬頭直義ニ遠江ノ國・・・

  (中略)・・・ヲゾ被レ 行ケル (『太平記』「巻第十二 安鎭國家法事付諸大將恩賞事」)

 

同年11月8日には直義も相模の国司に任じられ、建武元年(1334)正月5日、尊氏は正三位に叙せられます。    

 

 このような尊氏の破格な昇官の速さは、倒幕の功績によるものだけだったのでしょうか。

 

 「建武の新政」を成功させるために、自らの軍を持たない天皇は、その指揮下に武力を保持する必要を感じていたのでしょう。

 

 そこで幕府を討伐した一人の尊氏を、直属の武士団とすることを考えたのでしょう。

 

  尊氏は鎌倉時代北条氏に次ぐ勢力を持ち、幕府を倒した後も、その勢力を保ち全国の武士に影響を及ぼすことのできるその力をどうしても必要としていたからです。

 

  高い官位を叙し、天皇の諱の一字を授けてまでも、建武の新政の政権下に尊氏を引き付けて置く必要があったのです。

 

 尊氏・直義兄弟が、武蔵国・相模国の国司となったことは重要な意味を持っています。

 実質的に鎌倉を手中にしていた尊氏にとって“お墨つき”を得たもので、鎌倉の領有ばかりでなく、関東における権威を一層強固するものとなったのです。 

 

  幕府倒幕に功績を高く評価され尊氏の官位(官職と位階)は、短期間のうちに従三位まで叙されたのですが、新政府の重要な役には就いていません。

 

 この状況を公家や武士の間や世間では「尊氏なし」(『梅松論』)と言って不思議がったといいます。

 

 「尊氏なし」は、天皇が尊氏の扱いに苦慮していたこと、尊氏自身も天皇の政権に属すことをよしとせず、距離を置いたことを裏付けています。

 

 「尊氏なし」の言葉の根底には、尊氏とその一族の力が、周囲に及ぼす強大な影響力を持っていたからなのです。

 

 「距離を置いた」それを示す一つとして、元弘3年(1333)5月7日、高氏が六波羅探題を攻略後、直ちに設けた奉行所の存在がありました。

 

 この奉行所は、6月後醍醐天皇が還幸された時には、すでに六波羅一帯を制圧し武士の統制・都の治安維持など機能していたのです。

   ※六波羅には、承久3年(1221)の承久の乱後、鎌倉幕府が設置した「六波羅探題」があった。

  探題は西国を統制する重要拠点であり、朝廷や西国の武士の監視を目的にしていた。

 

 鎌倉幕府の西国統治の拠点であった六波羅を、尊氏が手中に収めていたことには大きな意味があったのです。

 

 六波羅は鎌倉時代から、武士の西の聖地なのです。上洛する武士たちが、まず六波羅の奉行所に寄ってから入京したといいます。

 奉行所は降伏してくる武士たちをも受入れました。そのため尊氏の軍勢は、ますますふくれあがっていったというのです。

 

 このような光景は、多くの武士たちが尊氏を「源氏の棟梁」「武家の棟梁」と認めていくことになっていきました。

 

 後醍醐天皇は、奉行所の存在を軽視することはできませんでした。奉行所を軽んじることは、尊氏を軽んじることであり、尊氏を信望する武士たちにも影響を与えることにもなるからです。しいては、親政の推進に大きな影響を与えことになるからなのです。

 

 後醍醐天皇は尊氏の扱いに決断できず苦慮していたことでしょう。

 

 尊氏が親政政権との距離を置いたという説には、尊氏には「源氏の正統」という誇りがあり、幕府再興こそが大望であったと言われます。天皇の親政の下に与し、平氏のように貴族化することを拒んだのでしょう。

 

 足利家には、「置文伝承」が二通あったといわれています。

 一通目は、源義家の「わが七代の孫にわれ生まれ替わり天下を取るべし」。

 二通目が義家七代目の孫にあたる足利家時の「わが命をつづめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」というものです。

 家時のいう「三代の中」にあたるのが尊氏だったそうです。

    ※義家七代あととは、源義家-義国-足利義康(足利氏祖)-義兼-義氏-泰氏-頼氏-家時

    ※家時三代の中とは、家時-貞氏-尊氏  

    ※この時期「置文」が、すでに存在していたかは疑わしい。

 

 

   ②新田義貞のこと

 鎌倉幕府を倒したもう一人の功労者は新田義貞です。

 義貞が都に上洛した日付ははきりしないのですが、『太平記』「巻第十二 安鎭國家法事付諸大將恩賞事」には、義貞が上洛した時の都の様子が次のように記されています。 

  資料4  新田左馬助・舎弟兵庫助七千餘騎ニテ、被二 上洛一 。此外國々ノ武士共、 一人モ不レ 殘上リ集ケル間、京白河ニ充滿シテ、王城ノ富貴日來ニ百倍セリ。 

   ※この義貞上洛日を、新田次郎氏は著『新田義貞』の中で「七月に入ってからであろうことは推察される」と記している。

    ※京白河は、平安時代には藤原氏等の別業(別荘)が多く設けられ、 院政期には白河天皇の御所(白河殿)が設けられ、その後院政の中心の地であった。

 

 元弘3年(1333)8月5日、高氏が尊氏となり従三位となった論功行賞の日、義貞は従四位上に叙せられ、上野国・播磨国の国司(大介)に任じられました。           

  (前略)新田左馬助義貞ニ上野・播磨兩國、子息義顕ニ越後國、舎弟兵部少輔 義助ニ駿河國

  ・・(中略)・・ヲゾ被レ行ケル。

    (『太平記』「巻第十二 安鎭國家法事付諸大將恩賞事」)

 位階(位)が無く官職に就いていない無位無官であった義貞は、「従四位上に叙せられ(『群馬県史』「通史編3 中世」)」たのです。

 

 「従四位上」は、官位相当制30段階中の上から9番目の位階(位)です。

  ※高氏は、従三位に叙せられた。

 

 鎌倉を攻略した第一人者義貞の評価を、朝廷は「従四位上」にとどめたのです。

 それは、「従三位」に叙した尊氏との兼ね合いもあり、義貞が鎌倉討伐の第一人者とはいえ、尊氏と同列にすえることを慮ったからなのでしょう。

   ※高氏の足利氏は、2代足利義兼から代々の当主には官位を授けられ、高氏も15歳で従五位下の位階(位)を持っていた。

   一方義貞の新田氏は代々無位無官であり、義貞も30歳を過ぎても無位無官だった。

 

 朝廷の義貞への評価は、義貞自身の評価だけでなく、尊氏の立場を推し量ったうえでの評価だったのです。

 

  同年10月9日武者所が設置ます。義貞は論功行賞により、頭人に任じられます。新田

一族は武者所で地位を得ました。         

    一番 新田義顯 新田(堀口)貞政  他9人

   二番 新田(堀口)貞義           他10人

    三番 新田(江田)行義           他10人

    四番 長井廣秀                他10人

    五番 新田(脇屋)義治            他10人

    六番  武田信貞                他9人

         (『群馬県史』「資料編6」)(人数は加筆)

 

 新田氏は一番・二番・三番・五番に配され、(一番の貞政の他は)各番の責任者となったのです。新田義貞を始めとする新田氏は、後醍醐天皇の親政を軍事面から支える武者所の中核にはなったのです。

  ※武者所は、建武政権の軍事面を務め、武士の統括・京の治安維持警備を 司り、6番 から成っていた。 

   ※頭人(とうにん)は、長官を意味する。

  ※新田義顯は、義貞の嫡子。

  ※新田(堀口)貞義・貞政は、義貞の曾祖父政氏の弟家貞の子(『尊卑分脈』)。 

   貞政に(堀口)とあるが、堀口氏の分家一井氏の祖。 

  ※新田(江田)行義は、新田氏一族(新田義重の子義季の末流。義重は新田氏の祖)。

 

 

 後醍醐天皇の建武の新政は、世の中に不満を増大させていきます。

  次回は、この点について記してみます。