「上野国(こうずけのくに)山上(やまかみ)氏」

第3章 文書にみる山上氏 続編

  (二)  『吾妻鏡』にみる山上氏 (続編)

 その一 『吾妻鏡』 巻二  

 

『吾妻鏡』に、「野木宮合戦」の後の寿永二年(一一八三)九月七日の条に「源頼朝は側近の和田次郎義茂(よしもち)に藤姓足利俊綱の討伐を命じた」ことが記され、同九月十三日の条には、

 

「義茂未到以前。 俊綱專一者桐生六郎。 爲顯隱忠。 斬主人而篭深山。」

  義茂未だ到る以前に  俊綱の專一(せんいつ)の者桐生六郎。

  隱忠(いんちゆう)を顯(あらわ)さんため。主人を斬り深山に籠る。

 

 和田義茂の討伐軍が下野国足利荘に到着前に、桐生六郎は頼朝に忠節を表すために俊綱を斬ったというのです。

ここに藤姓足利氏は歴史の流れの中から姿を消してしまったのです。

 

 

さて、足利俊綱の一番の腹心であった桐生六郎が、なぜ主の俊綱を斬ったのでしょうか。

『吾妻鏡』寿永二年(一一八三)九月十八日の条に

 

 「桐生六郎以梶原平三申云。 依此賞。 可列御家人云々。」

  桐生六郎、梶原平三を以て申して云く

  此の賞に依て、御家人に列すべしと云々。

 

 桐生六郎が、梶原平三(景時)を通して言うには、俊綱を斬ってその首を持ってきたこの手柄によって、御家人に加えて欲しいと言ったという内容です。

 六郎は自己のみの栄達「頼朝の御家人」になることを望んだというのです。

 

このことから、六郎を主人を誅した謀反人という見方が生じたのでしょう。

 

 

 ここで、浅学ではありますが、別の角度から哀れみをもって私見を述べてみます。

 前述した『吾妻鏡』 (寿永二年二月)廿五日の条に、

 

 「野木宮合戦敗北之後悔先非。 耻後勘。」

   野木宮合戦 敗北の後    先非を悔い 後勘を恥じ

 

先非を悔い、後勘を耻じたのは、はたして忠綱だけなのでしょうか。

 『吾妻鏡』寿永二年(一一八三)九月七日の条に、

 

 まず俊綱・忠綱父子が「武衛(源頼朝)の味方につかなかった経緯」が述べられています。 

 

 次に、 「武衛亦頻咎思食之間」

  武衛また頻(しきり)に咎(とが)め  思ひ食(め)すの間

 

 俊綱・忠綱は、頼朝から平家方にあることを幾度となく咎められ、頼朝方につくよう働きかけられていたのでしょうか。

 しかし、俊綱父子は平家方から離れることはありませんでした。

 

 寿永二年二月二十三日には野木宮合戦。

 同年二月二十五日には嫡子忠綱、山上郷龍奥に籠ります。

 そして同年九月七日には俊綱は頼朝の命をにより和田義茂(よしもち)に追討されることになってしまうのです。

 

 このような事々から、忠綱の父俊綱も頼朝方に付かなかったことに対し「先非を悔い後勘を耻じ」ていたのではないでしょうか。  

 

 

 寿永二年(一一八三)九月、和田義茂の討伐軍が足利荘に向かったことを知った俊綱は、源頼朝に先の非礼を詫び、自分の命と引き替えに、藤姓足利氏の存続と嫡子忠綱の赦免を強く願ったのではないでしょうか。

 

  そこで、俊綱は、專一(せんいつ)の者桐生六郎にこのことを伝え、自らを斬らせ、首を源頼朝のもとに届けさせようとしたのでしょう。

 

  この俊綱の思いは頼朝に届かず、俊綱の首は頼朝の逆賊とその首をさらされ、六郎の罪科も重く主殺しとして鎌倉腰越で誅され、両者の首は七里ヶ浜でさらされてしまうのです。

 

 このような見方をすると、「はたして桐生六郎は謀反人であったのだろうか」という思いがします。

 

 

 『佐野市史』「通史編上巻」によると、「足利俊綱が桐生六郎に討たれたのは、(寿永二年九月)十三日小中村諏訪の森(現在の佐野市小中町)といわれ、現在その一部に藤宮神社が建立されている」とあります。

 

  寿永二年の『野木宮合戦』が、藤姓足利氏の嫡家の存在の分かれ目をとなった合戦であったことを『吾妻鏡』をもとに述べてみました。

 

 

その二 『吾妻鏡』 巻四

 

元暦二年正月大一日乙酉(きのととり)。卯剋

  武衛(御水干)。御参鶴岳宮。

 被奉神馬二疋。〔黒鹿毛。〕

 山上太郎高光 

 

 小林次郎重弘等引之 ~  以  下  略

 

   元暦(げんりゃく)二年正月大一日乙酉(きのととり)  卯の剋(こく)

  武衛(ぶえい)御水干(すいかん)  鶴岳岡宮へ御参(ぎょさん)

  神馬二疋  黒鹿毛(くろかげ)  奉(たてまつ)らる

  山上太郎高光

 

    小林次郎重弘等之を引く

 

 

 「元暦二年(一一八五)正月一日乙酉の六時頃、頼朝公は水干をまとい鶴岡八幡宮に参拝しました。神馬を二頭奉納しました。

山上太郎高光、小林次郎重弘が、神馬の手綱をひきました」という内容です。

 

 

 「元暦二年正月大一日」の条は、「野木宮合戦」の後、足利忠綱を山上郷龍奥に匿ってからわずか二年後のことです。

 ここで着目すべきは、山上太郎高光が、源頼朝の鶴岡八幡宮参拝に供奉したことです。

 山上高光がすでに頼朝の御家人としての地位を築いていたことがわかります。

 

『群馬県史』「通史編中世」に、この時期までに頼朝方に属した上野国の諸氏として、「西毛では山名・高山・小林・丹生・多胡」、「中毛では里見・大胡」、「東毛では新田・佐貫・山上」、「北毛では吾妻・沼田」の各諸氏があげ、「この時期、上野国には源頼朝の勢力が形成された」とあります。

 

またこの元暦二年(一一八五)は、屋島の戦い(同年二月)・壇ノ浦の戦い(同年三月)で平家を滅亡させ、同十一月には、御家人を守護、地頭に任じて全国に置き、主従関係を築くなど、頼朝の全国支配が確立した年でした。

 

 頼朝の矛先は奥州へと向かいます。

源義経を匿う藤原泰衡に圧力を加え続けます・そして、文治五年(一一八九)四月、義経は、頼朝の圧力に屈した泰衡によって攻められ衣川(岩手県平泉)にて自刃しました。

 

 頼朝の矛はそれでも収まらず、同年七月一七日には、泰衡の征伐(「奥州征伐」)する「可有御下向于奥州事(奥州に御下向有る可き事)」が発せられます。

『吾妻鏡』「巻九」文治五年七月小十七日乙亥(きのとい)の条、翌日十八日丙子(ひのえね)の条に山上氏の名は見当たりませんが、多くの上野国の武士たちが頼朝の軍勢に加わっています。

頼朝の権力が上野国に及んでいたことがわかります。

 

 また、『群馬県史』「通史編中世」によると、この「奥州合戦に当たって源頼朝は九州の御家人までに動員令を出した大規模な合戦であった」といいます。

 

 

その三 『吾妻鏡』 巻十

 

   建久元年(一一九〇)十一月大七日の条

 

建久元年十一月大七日丁。雨降。

午一剋属晴。其後風烈。

二品御入洛。皇法密々以御車御覽。

見物車輾轂立河原。申剋先陣入洛。

三條末西行。河原南行。令到六波羅給。

其行列。(中略)次後陣隨兵(中略)九番河村三郎、阿坂余三、山上太郎 ~(以下略)

 

建久元年十一月大七日丁巳雨降です。

午前十一時半頃に晴れてきました。その後強い風が吹きました。

頼朝様の京入りです。後白河法皇はお忍びで牛車で見です。

見物の牛車が車軸をきしませながら沢山鴨川の河原に並んでいます。

午後四時頃に先頭が京入りして、三条東のはずれから西へ進み鴨川の河原を南へ進んで六波羅に到着しました。

 

 奥州平定後、頼朝は後白河法皇の招請に応じて、後白河法皇・後鳥羽上皇に拝謁のため上洛しました。

上洛には一千騎を伴っていたということです。

この行列の儀仗兵九番隊に山上太郎(高光)の名があります。

 

 平治元年(一一五九)十二月の平治の乱で敗れ、父源義朝が討たれ、十三才の頼朝は、翌年の三月伊豆蛭ケ小島に流されました。

京の入洛は三十年ぶりのことでした。

 

  頼朝は、後白河法皇から、権大納言・右近衛大将に任ぜられたものの「令上兩職辞状給」て、十二月小廿九日鎌倉に到着したのです。

 

 頼朝は、平氏政権が都での朝廷との関わりの中で衰退していったのを前例に、板東武者との主従関係を主軸にした武家政権の確立堅持を決意し鎌倉に帰参したしたのでしょう。

 

その行列は、(中略)次にしんがりの儀杖兵(中略)九番河村三郎阿坂余三  山上太郎 ~  (以下略)