「上野国(こうずけのくに)山上(やまかみ)氏」(4)

第3章 文書にみる山上氏 続き

( 二)  『吾妻鏡』にみる山上氏

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の出来事を編年体著したもので、鎌倉時代末期の成立と思われます。

この『吾妻鏡』には、鎌倉幕府の御家人となった「山上氏」が散見します。

 

  その一 『吾妻鏡』巻二 

 

廿五日辛未((治承五年閏二月))

足利又太郎忠綱 雖令同意于義廣

野木宮合戦敗北之後

悔先非。耻後勘。

潜籠于上野國山上郷龍奥。 ~以下略

(『群馬県史』「資料編6」)

 

 足利又太郎忠綱 義廣に同意令(せし)むと雖も

  野木宮合戦 敗北の後 先非(せんぴ)を悔(く)い。

 後勘(ごかん)を耻(は)じ 潜に(ひそか)上野國山上郷龍奥(たつおく)に籠(こも)る

 ~以下略~。

 

 

 野木宮合戦は、『吾妻鏡』には、「治承五年(養和元年)のことと記していまが、今日、この合戦は「寿永二年」のこととする説が多いようです。

 『群馬県史』「通史編3  中世」でも「寿永二年」のこととしています。そこで本稿も県史に追従して記していくことにします。

  この野木宮合戦は、その後の山上氏にとってその存続を左右する合戦だったのです。

  『橋合戦』後、足利忠綱と同庶家との間に恩賞問題が起こりました。忠綱には上野国大介職と新田荘が下賜されたのですが、庶家がこれに不満を持ち、忠綱の恩賞が取り消されるという内紛が起こりました。

 この嫡家と庶家の亀裂は、野木宮合戦に敵対関係となり、藤姓足利氏嫡家は滅亡への道をたどり、一方庶家は源頼朝の御家人となり鎌倉幕府の一翼を担うことになるのです。

 

 野木宮合戦は、下野国野木宮(現在の栃木県野木町)で源頼朝方小山朝政と反頼朝方の志田義広(頼朝の叔父)との合戦です。

  常陸国志田荘(信太荘)を拠点とした志田義広は、頼朝の挙兵を静観しました。頼朝は挙兵後、石橋山の戦いでは敗走しましたが、富士川の合戦以降勢力を伸ばしていきます。

 義広は、これに対抗するため、下野国小山氏朝政、藤姓足利氏の俊綱・忠綱、常陸国佐竹秀義らと同盟し、頼朝軍の勢力拡大を阻止しようとしたのかも知れません。

 しかし、佐竹軍は頼朝軍に討たれ、寿永二年《一一八三)二月二十三日、義広も同盟を約した小山朝政の奇襲を受け、野木宮で合戦し敗れたのです。

  この戦に、戸矢古(へやこ)・佐野・阿曽沼らの藤姓足利氏の各庶家は小山方(頼朝方)として参戦したようです。

  ただ、藤姓足利氏当主足利俊綱・嫡子忠綱が、志田方(反頼朝方)には組みしたものの、直接合戦に加わったかは不明です。また、山上氏の参戦も明かではありません。

 しかし、『吾妻鏡』の「忠綱、上野国山上郷龍奥に籠る」という文面からは、逃れてきた忠綱(高綱の兄俊綱の子)を、山上氏が匿ったことになります。

 山上氏は野木宮合戦以前に庶家とともに、平氏方に組みする嫡家足利氏とは袂を分かち、早くから源氏方に組みしていたことが推測されます。

 

さて、足利忠綱が籠もったという「山上郷龍奥」とはどこなのでしょう。  

 「山上」は、桐生市新里町に「山上」という地はありますが、「龍奥」という地名はありません。山上地内にも龍奥という地名もありません。

 「龍奥」が構造物を示す名とすると、新里町関に、元和三年(一六一七)開創といわれる「瀧興寺(りゅうこうじ)」という真言宗のお寺があります。しかし、瀧興寺の開創時と、足利忠綱が籠もったという時期には四三〇年以上の開きがあります。ですから、「山上郷龍奥」が瀧興寺の地だとは言い難いのですが、「龍奥」と「瀧興」とは、何らかの関係があるのかも知れません。  

 

 さて、「山上郷龍奥」に籠もった足利忠綱は、その後どうなったのでしょう。

  『吾妻鏡』の同条に、「山上龍奥に籠もったていた忠綱は、治承四年(一一八〇)五月の宇治川の合戦(平家物語にいう橋合戦)にも従った家臣桐生六郎に説得されて、源氏の追っ手から逃れるため西国へ向かったということです」という内容があります。

 「西国はまだ平氏の勢力下にあって、源氏の追求を逃れることができる」という、桐生六郎の説得だったのでしょう。これはまた、父足利俊綱の嫡子忠綱への思いだったのかも知れません。

  しかし、世の中の流れは、平氏の都落ち、

 源頼朝の東国支配権の確立と源氏勢力が関東から畿内まで急速に拡大していく頃でした。「野木宮合戦」の二年後、寿永四年(一一八五)三月には「壇ノ浦の戦い」「平氏滅亡」へと、時の流れは突き進んでいた頃でした。俊綱・忠綱・桐生六郎の思惑とはまったく異なる方向に進んでいたのです。

  「忠綱、西海方に赴く」後の記録はありませんが、桐生市内に忠綱を祀る寺社及び伝承が残っています。

  まず、忠綱の終焉の地と伝わる桐生市梅田町皆沢(かいざわ)の地に「八幡神社(通称忠綱明神)」があります。

 『桐生市史別巻』「第一編神社」に、この社の由緒として、忠綱が西国から戻り、源義家の曽孫で「野木宮合戦」後に足利荘を領した足利義兼のもとに身を寄せたということ。

 

『下野神社沿革史』によるとして、忠綱の伝承が記されており、皆沢八幡宮の御神体は忠綱像と伝えられています。 

  また、桐生市黒保根町下田沢楡沢にも、「赤城・忠綱大明神」として足利忠綱が主祭神として祀られています。みどり市東町神戸に「太郎神社」があり、祭神が田原太郎忠綱となっています。

  桐生市(旧市内・黒保根町・新里町)に伝わる五百の伝承・民話を収集し編集した清水義男氏の著『ふるさと桐生の民話』にも、「セチ餅をつかない一ノ瀬家」「『避来矢』の鎧」などが掲載され今日に伝わっています。

  足利忠綱終焉の地とされる桐生市梅田町皆沢と、足利義兼の館(現足利市鑁阿寺(ばんなじ))との

中ほどに「赤雪山」(読み方は、あかゆきやま・あかきやま・あけきやま等)があります。この山の名の云われにも忠綱の伝承が残っています。それは、西国から戻った忠綱は、足利義兼のもとに身を寄せていました。

 しかし、あらぬ疑いをかけられた忠綱は、義兼に追われることになったのです。逃亡の途中忠綱は傷を負い、その血が、降り積もった雪を赤く染めたことからその名が付いたというのです。

  忠綱の伝承は、遠く愛媛県西予市宇和町の「歯長寺(しちょうじ)」、西予市と宇和島市の市境の「歯長峠」に伝わっています。「歯長」は、忠綱の歯が実に一寸ほどもあり「歯長又太郎」とも言われたそうです。京都府の宇治田原町には、忠綱の墓と伝えられる供養塔があるそうです。

  このように、忠綱の伝承は各地に点在しています。

 そこには、忠綱が藤原秀郷の末裔で、東上野から西下野にかけてを支配した藤姓足利氏の嫡流として、『平家物語』でいう「橋合戦」で活躍したものの、悲運のうちに歴史から姿を消したこと。

 また『吾妻鏡』治承五年閏二月廿五日(『群馬県史』「資料編6」)の条には

   是末代無雙勇士也、三事越人也、

   所謂(いわゆる)一其力對百人也、二其聲響十里也、

   三其齒一寸也云々

 忠綱は勇猛な武将で、力は百人力、声は十里先にも届き、歯は一寸もあると云われているのだそうですと、その力や容姿について記されています。

 

 世の人々に広く知られている源義経や平将門ほどではないですが、忠綱に対する人々の畏敬や畏怖の念が、今も各地に信仰となって残っているのでしょう。