岩澤正作著「渡良瀨峡内澤入塔見聞記」編 藤井 実
私的現代語訳と補説
およそ百年前 岩澤正作の東探訪記
岩澤正作著「渡良瀨峡内澤入塔見聞記」
(大正十四年七月版『上毛及上毛人』より) 編 藤井 実
はじめに
『渡良瀬峡内澤入塔見聞記』は、岩澤正作氏が大正14年7月『上毛及上毛人』(上毛郷土史研究会)に、今から約100年ほど前の勢多郡東村沢入駅から賽の河原までの道々の様子や、かつてあった名勝の地などを訪ね丁寧に記録されたものです。
その内容は地理・歴史・考古・地質・植物など幅広い分野にわたっており、当時を知ることのできる唯一無二の貴重資料であり記録なのです。
本稿は、この貴重な書を、多くの人の目にとまっていただけることを期し、おこがましくも現代語にし、加筆し編集したものです。
岩沢正作没後60周年記念展の小冊子『群馬考古学の先駆者 岩沢正作』を一読すると、明治36年(1903)から昭和19年(1944)の42年間に著書・共著や報告・論文を執筆されている。その数なんと278編。驚愕の念を禁じ得ません。
先に記したように、岩沢正作氏の研究は多岐にわたりその偉業は「群馬考古学の先駆者」として今もたたえられています。
膨大な知識語彙を駆使し、まこと豊かに、そして的確に書き著されています。岩澤氏の伝えようとした情報が、浅学の迂拙には、正確には伝えられず、微妙に異なる表現しかできなかったことをご容赦下さい。
岩澤氏は、明治九年(一八七六)に現在の横浜市に生まれ、東京や四国で教師をし、群馬県には明治三十五年(一九〇二)前橋中学校(※現前橋高校)の先生として来県されました。大正三年(一九一四)大間々共立普通学校(※現大間々高校)で博物学の教鞭をとり、昭和十九年(一九四四)に亡くなるまで大間々町に住まれました。
岩澤氏は博物学者であり、郷土史研究家でもありました。氏は調査研究の結果を「上毛及び上毛人」で発表したり、自らも「毛野」を発刊したり、『山田郡誌』の「地質・生物・先史時代・原史時代・史跡及び天然記念物」の章を執筆したりするなど、郷土の幅広い研究に尽くされました。
とくに「赤城山」を好み「赤城山の主」とも呼ばれる方でした。
岩澤氏は昭和十九年六月二十一日、大胡町で公演の後に倒れ、その会場で六十八歳の生涯を閉じました。氏の収集物は、現在「群馬の森 歴史博物館」におかれています。
岩澤氏の『渡良瀬狹内澤入見聞記』を読む時、今では見られなくなってしまった風景、路々。今も悠久の時を刻み続ける風景にも往時の思いをめぐらせることができるでしょう。
前置きが長くなりましたが、私的現代語訳『渡良瀬狹内澤入見聞記』をご一読ください。
緒説
渡良瀬川の上流を古来黒川峽と呼んでいる。
ここにはいくつもの谷があり、景勝の地が多く、川の様子も変化に富み稀にみる所である。
黒川峡の入口あたる大間々町の東へりの谷を、中国長江の赤壁に似ているということから「小赤壁」と言われる高津戸の奇勝 をはじめとして、「神梅新道」下の渡良瀬川河中の稀れな景色、東村神土の「釜戸の淵」の不思議な光景などは、すでに人々に知られている所である。
神戸の「釜戸の淵」
神戸と座間を架ける「万年橋」橋下、上流側の景観
※ 花輪には「ヒガセ淵」という奇勝もある
花輪と小夜戸地内大畑を架ける「東瀬橋」橋下、上流側の景観
さらに上流には「草木八景」の景勝の地 がある。
草木八景
現在草木湖にかかる草木大橋の橋下には、昭和51年現在の草木橋が完成する以前には吊り橋の草木橋があった。
この橋の下流の河床には、かつて奇岩怪石が点在した。
中でも八つの巨石を「草木八景」といった。
一・星石、二・弘法の割石、三・釜戸岩、四・雄釜・雌釜、五・四十八窪岩、六・龍燈岩、七・龍の口岩、八・龍岩の八巨岩である。
大同年間(806~810)、弘法大師巡しゃくの途次に選ばれ所と伝えられている。
現在、龍石(たついし)のみが、現草木橋近くのボート乗り場の駐車場に現存している。
これらはおおむね古生層岩よりなるもので、共に其の特質をあらわしている。
古生層
五億四千万年から二億五千万年前の古生代の地層。
古生代は恐竜や哺乳類・人類が誕生する以前の地質時代のことで、三葉虫・アンモナイトが生まれた時代の頃に形成された地層を古生層という。
殊に草木八景中の「四十八窪石」のめずらしさは、単に名勝としてのみならず、地質学上の見地から考え天然記念物として推奬すべき価値が十分にあるほどだ。
だから私は数年前から、東村役場や、同村花輪小学校長、星野調査委員等に注意しておいた。
そこから渡良瀬川上流の県境に致るまで、ずっと花崗岩地域が続き、淡い白色の岩々が、旅人の目を楽しませている。
箱庭のような高津戸峽の上流十里あまりの地に、このような雄大な景観に接することができることに驚かされる。
黒川峡の支峡のなかで、花崗岩特質の勝地をあげるとすれば、先ずは板倉川峡中を挙げるべきであろう。
板倉川
国道122号線を日光方面に向かい、富弘美術館を過ぎ、「東宮」の信号から二百㍍ほど行くと短い橋がある。
この橋「押手橋」の下を流れるのが板倉川(押手川)。
板倉川は渡良瀬川の支流の一つ。
かつて、渡良瀬川との合流場所には、いくつかの連続する小さな滝があったり、「小田巻の淵」と言われる景勝があったりした。
またこの地には、塔の澤相輪塔にかかわる伝承が残っている。
天明2年(1782)4月には、高山彦九郎がこの地を訪れ、2句を詠んでいる。
・岨伝えそひ来て尋ね沢入の朧に橋の月を見る哉
・おぼろにも見ゆるや嬉し光ある心の底ハ月そしるらん
私は去る五月二十五日、原田勢多郡誌編集主任の招集に応じて一応視察をおえた。
今回その大要を記し、本誌の余白を借りることにした。
もし、東道(あずまみち)を訪ねる旅人に役立つことができるなら、この上ない喜びである。
澤入駅より不動滝まで
澤入(そうり)は古くは「草入」と書き、「さうり」と読んでいた。
草入(さうり)の別表記 「草里」と書いたという説もある。
沢入の地名の由来 『勢多郡東村の民俗』(昭和41年3月30日群馬県教育委員会発行)より。
このあたりの興味ある習俗語として山の下降稜線をソリ(反)といい、不毛地を指している、不毛なるが故に不毛から脱却転換するためには土地をソラス(反らす)必要があったわけで、その手段が切替畑、すなわち焼畑であったのである。
このことからつまりソウリはソラスの名詞化であり、そのままそれが焼畑自体を意味するものとなったことから、当然現在の沢入地区は随所に焼畑が行われてきた事々証するところであることは疑いを入れない。
勢多郡の東端東村の最も東にあって栃木県に接している大字春場見(はるばみ)の渡良瀬川中に有名な「板東太郎夫婦岩」がある。
板東太郎夫婦石の大きさ(夫石名:太郎岩 婦石名:花子岩)
岩澤正作著『黑川狹と澤入塔』(昭和8年12月30日発行)には、「夫石高さ十三間(約23.6㍍)、幅八間(約14.5㍍)。婦石は夫石の南に在りて高さ九間(約16.3㍍)、幅六間(約10.9㍍)と里人は稱してゐる」とある。
この石は、お伊勢参りをしたという伝説を持ち有名である。
一方では、だんだんと上流に動くと不思議がられている石でもある。
お伊勢参りの伝説は中島君の持ち場に譲って、上流に移動することについて一言蛇足を添えてみる。
河中の「岩塊が動く」という言い伝えを持つ石を詳しく調べると、このような石は全国には少なからずあることに驚くであろう。
ただ坂東太郎に限ったことはないのである。
要は、河中の砂礫上にちょこんと立っているだけの岩塊は、洪水のたび、上流側の砂礫が削られ運び去られる。
すると岩塊は上流に向つて倒れる。
これを「石が動く」と伝えられた。
こうした原因によるのであえて驚くべきことでもない。
しかし、私は科学的に説明して此の名石をけなすものではない。
科学的に見て、名石たることが間違いであること示すものではない。
又この石には、徳川時代の初期ある大名が、日光廟前の燈籠の石材として採取しようとした。
當時の石工が矢を入れると、はね飛ばされて即死したとか、気絶したとか伝えられているが、これは説明の限りではない。
矢 石をわるためのクサビ型をした鉄製の道具。 石割矢という
こうした口碑伝説を持つた名石も、明治三十五年九月の大洪水に夫婦の一石(夫石:太郎岩)は、その根腰を深く洗われたために遂に倒され大分景観が変わってしまった。
婦岩(花子岩) 何時の頃か切り出され、今はその姿を留めない。
大洪水 『勢多郡東村誌 東村百年資料年表』(平成10年2月勢多郡東村発行)には、「明治35年9月28日」と記されている。
この大水害は、「沢入橋流出」「座間万年橋流出」「小夜戸村14戸浸水」「花輪堤防決壊」等々、東村は甚大な被害を受けた。花輪堤防決壊について、「午前十一時四十五分堤防決壊。看ル看ル一大海トナル」と記されている。
春場見から少し東に楡澤(ねりざわ)と云う所がある。
そこには義経の遺臣亀井六郎の系統が伝わっているそうだ。
義経の遺臣亀井六郎
『勢多郡東村の民俗』(昭和41年3月30日 群馬県教育委員会発行)には「亀井六郎は、源義経の四天王の一人。亀井家はその子孫という。
兄頼朝に追われた義経は奥州へむかった。そのとき六郎はいつ果てるかも知れぬ自分の身上を案じて、ねば土で自分の姿をつくり、沢入で果てたことにしてここに埋めたという。その縁故で沢入に亀井の系統がある」と記されている。
義経の四天王
歌舞伎・講談・物語・伝承によって四天王の顔ぶれは異なる。
歌舞伎では、亀井六郎、片岡八郎、伊勢三郎、駿河次郎の場合が多い。
実在した亀井六郎
『吾妻鏡』「文治元年(1185)五月七日の条」に亀井六郎の名がある。
六郎は義経の使者として、「頼朝に異心(謀叛)がない」ことを誓う起請文を頼朝に届けた人物である。
『吾妻鏡』「五月五日の条」には次のような内容が記されている頼朝が命じていた範頼が九州を、義経が四国を管轄せよの命に反し、壇ノ浦の合戦後、範頼から九州の管轄権を奪い九州を支配した。また、頼朝の勝手に処罰してならぬの命に反し、配下の東国武士を勝手に処断するなどの行動をとっていた。
同月24日、義経の心情をつづったかの「腰越状」が大江広元あてに出された。
話が大分わき道にそれてしまったが、それはそれとして、澤入駅は渡良瀨川の左岸、向澤入(むこうそうり)にある。
澤入駅 国鉄足尾線澤入駅は、現在の地に大正元年11月11日に開業した。
澤入橋を渡って右岸に出て小坂を上ると澤入宿の街道である。
右折して進むと大澤寺の門前に出て、西北にたどると間もなく板倉川の斜面に出る。
澤入橋 ここにいう澤入橋は、現在の沢入橋の百㍍ほど上流にあり、昭和の初めころまで使われていた吊り橋。その橋脚が今も残る。
澤入宿 澤入宿は、あかがね街道の幕府御用銅輸送のための継場の一つで銅藏があり、銅を輸送する馬借も数多くいた。
大澤寺(だいたくじ)
古来から相輪塔・寝釈迦の別当寺。境内には、弘法大師が板倉川(押手川)から上げたものと伝える庚申像が祀られている。かつては縁日には、参詣者で賑ぎわった。
沿道は杉林と雜木林とが入り混りよい森が続いている。道ばたで目にとまった花は、クサノオウ、ムラサキケマン、コンロンソウ、ウツギ、キジムシロ、ミツバウツギ、ツクバネウツギ、オトコヨツドメ、マムシグサ、チゴユリ、ヒメウツギ、スミレ、ツボスミレ、エゾスミレ、ヤマツゝジ、サワフタギ、キイチゴ、コバタゴ、ガマズミなどである。
寺の前から約十五分程進むと、「字イボ澤」と云ふ所の道の右側に一大岩塊が突出し岩屋のような形をしている。
この岩が澤入塔の第二台石であったという。
字イボ澤(※地元ではエボ沢)
大沢寺から1㎞ほど進み山の鞍部を過ぎ右側から流れてくる最初の沢を「イボ(エボ)沢」という。字イボ沢はこの附近から道に沿って続く。
沢入塔第二台石
澤入塔第二台石と伝えられる花崗岩の巨石が、字イボ沢に大正の中頃まで存在したという。現在場所不明であり、見ることはできない。
その昔、天狗が小田巻の淵の右岸にあった澤入塔を、一夜の中に塔の澤の寝釋迦のそばに運ぼうとして、段の上部から運び、第二台石をここまで運んできたと云う。
時は丁度師走の下旬で、民家では正月の支度に忙しく、夜半から起きて餅をついていた。天狗はその音を聞いて、人間が起きいるということは夜明けが近いと考え、台石をここに置いたまま去つたと伝えている。この里では近年まで夜の明けぬうちは餅をつかなかつたそうである。
約十分ほどで「字ミョウガの手」と云ふ所に着く。
ここに青年会は道標を建て、「右澤入塔道、參拾丁。左西山、小中道」と記している。
板倉川は此の附近で塔の澤川と西山川とに別れる。
字ミョウガノ手(※地元ではミョウガンテ)
最初の沢「イボ(エボ)沢」を過ぎ七百㍍ほど進むと右手からの沢を横切るこの辺りから西山山荘(西山林業従業員休憩所)手前の地が「字ミョウガノ手」。
山荘の先百㍍ほどの二差路に現在の道しるべがある。そこを右方向「塔の沢」に沿って寝釈迦・澤入塔へと進む。
塔の沢川に沿って右に進むと三・四分ばかりで川の水が流れ落ちる音が耳に響く。
前面に滝が現れる。滝は塔の沢の河底の断崖にあり二段になっている。
上段は高さ約三間ほどでやや勾配がある。下段は高さ約五間ほどでほとんど直下している。
下段の右岸の崖岩上には、等身大の「不動尊像」を安置し「不動滝」と呼んでいる。
不動尊像 「明和五年(1768)六月」。
施主は、植松九左衞門、松島文左衛門、小林弥兵衛、松島某、吉田某、松島某の七名が刻されている。
※不動滝・不動尊の所在のめじるし
塔の沢線・小中線の岐路から歩いて3・4分の所に,鳥居と墓型をした石碑がある。
石碑には、山の安全を祈願し「大山祇之命(おおやまつみのみこと)」「明治廿五年(1892)二月廿日」「炭焼有志連中」とある。
ここが目印。 この石碑手前から、塔の沢不動滝に向かっておりる散策道がある。
不動瀑から賽米(サゴヘ)の塔
谷あいの景観は不動滝辺りからはじまる。
谷の両岸は次第に狭まり壁はそびえ、岩の割れ目の節理は縦横にはしり、箱をいくつも積み重み上げたような形をしていたり、節理に沿って一部そこから剥離し岩窟のようになっている所もある。
花崗岩地特有の景觀となっている。
道ばたにはミツバツツジ、ヒトツバカエデ、ラショウモンカヅラ、ミヤマケマン、ヤシヤブシ、カンスゲ、クハカタソウ、ミヤマハコベ、ミツバツチグリ、トチノキ、アサノハカエデ、ワダソウ、チヤルメルソウ、エンレイソウ、フタバアオイ、クリンユキフデ等花を着けていた。オオバクロモヂ、ウリノキ、ツクバネノキなど見えたがまだ蕾すら認めなかった。
ふと見ると草葉の上に何やら細粉が附着している。
よく見ると山灰らしい。前日降下した焼岳のものか。
焼岳のものか
焼岳は長野県と岐阜県にまたがる飛騨山脈中にあり、長野県側には上高地や大正池などの観光地がある。
焼岳(焼ケ岳)の噴火は、大正14年(1925)5月18日。この噴火で160㎞以上離れた不動滝にも降灰があったことがわかる。
進むにつれワダソウ、チヤルメルソウ、エンレイソウ、フカバハギ等の群落を見付けた。
不動滝から二十五分ばかり進むと岐路があり「右、川を渡りて塔の澤道十八丁。
左、賽米の塔道」とある。案内者の話によると、旅人の中には左に折れて「賽米の塚」を見て引き返すもの者もいるという。
岐路 近年林道が整備されたため道筋もいくらか変わり、この「岐路」の位置が不明。
そのため、「賽米の塔」の所在が明らかになっていない。
左に折れラショウモンカヅラの咲き乱れている坂道を一丁ほど上り、一丁ばかり下ると対岸に、切石を積んで作つたような多重塔形をしたいわゆる「賽米の塔」がそびえている。
これに関する何らかの口碑を聞いてたが忘れたので、案内の者に聞いたが判らなかった。高さ三丈餘ある。
賽米の塔
岩澤正作氏が後に著した『黑川狹と澤入塔』には「賽米之塔」は、塔之澤渓中左岸丘腹に峨々として屹立する巨巌で、北方百米許の處から望見すると、巌頭三岐して夫々塔形をなしてゐる。
昔は涅槃像と澤入塔は女人禁制の地であつたから、女人は此の塔に賽米を供し、涅槃像と澤入塔とを遥拝して下つたから、之を賽米塔(サゴヘノトウ)と呼んだと傅へてゐる」とある。
※「賽米の塔」の所在
みどり市HP「塔ノ沢の石造釈迦涅槃像」の紹介文中に、「賽米之塔(せいまいのとう)」の名称のみの記述はあるものの、正確な位置・高さ・大きさなどについての詳細な記載はない。
編者も上記の岐路をさがし「賽米之塔」の場所を確認したい。。読者・遊子の応援を請う。
沢の奧の方を見ると、例の節理に因て露出した奇岩怪石が乱立して山ツツジの花がこれを飾っていた。さだめし秋の紅葉も見ものであろう。
引き返して二・三十間進むと、賽米の塔の沢から流れくる支流にあう。
上方十余間の所の両崖は削られたようにそびえ、谷の入り口を作り、その間に河水が流れて瀑布を作っている。その高さ約三間ほどであるが、見てみる価値がある。
これを、地元では「般若の滝」と呼ぶ。
般若の滝
岩澤正作氏が後に著した『黑川狹と澤入塔』には「般若瀧は、字上長手に在り、塔之澤の支流長手川に懸り、高さ約七米許なるも、兩岸迫り石門状をなせる間を落下する處に一顧の價値があり、上流渓中の右岸に浸食を免れてなせる自然の石柱數多屹立して、花崗岩地通有の奇勝をなしてゐる」とある。
不動瀑から賽米(サゴヘ)の塔
谷あいの景観は不動滝辺りからはじまる。谷の両岸は次第に狭まり壁はそびえ、岩の割れ目の節理は縦横にはしり、箱をいくつも積み重み上げたような形をしていたり、節理に沿って一部そこから剥離し岩窟のようになっている所もある。
花崗岩地特有の景觀となっている。
道ばたにはミツバツツジ、ヒトツバカエデ、ラショウモンカヅラ、ミヤマケマン、ヤシヤブシ、カンスゲ、クハカタソウ、ミヤマハコベ、ミツバツチグリ、トチノキ、アサノハカエデ、ワダソウ、チヤルメルソウ、エンレイソウ、フタバアオイ、クリンユキフデ等花を着けていた。
オオバクロモヂ、ウリノキ、ツクバネノキなど見えたがまだ蕾すら認めなかった。
ふと見ると草葉の上に何やら細粉が附着している。
よく見ると山灰らしい。前日降下した焼岳のものか。
焼岳のものか
焼岳は長野県と岐阜県にまたがる飛騨山脈中にあり、長野県側には上高地や大正池などの観光地がある。
焼岳(焼ケ岳)の噴火は、大正14年(1925)5月18日。この噴火で160㎞以上離れた不動滝にも降灰があったことがわかる。
進むにつれワダソウ、チヤルメルソウ、エンレイソウ、フカバハギ等の群落を見付けた。
不動滝から二十五分ばかり進むと岐路があり「右、川を渡りて塔の澤道十八丁。
左、賽米の塔道」とある。案内者の話によると、旅人の中には左に折れて「賽米の塚」を見て引き返すもの者もいるという。
岐路
近年林道が整備されたため道筋もいくらか変わり、この「岐路」の位置が不明。
そのため、「賽米の塔」の所在が明らかになっていない。
左に折れラショウモンカヅラの咲き乱れている坂道を一丁ほど上り、一丁ばかり下ると対岸に、切石を積んで作つたような多重塔形をしたいわゆる「賽米の塔」がそびえている。
これに関する何らかの口碑を聞いてたが忘れたので、案内の者に聞いたが判らなかった。
高さ三丈餘ある。
賽米の塔
岩澤正作氏が後に著した『黑川狹と澤入塔』には「賽米之塔」は、塔之澤渓中左岸丘腹に峨々として屹立する巨巌で、北方百米許の處から望見すると、巌頭三岐して夫々塔形をなしてゐる。
昔は涅槃像と澤入塔は女人禁制の地であつたから、女人は此の塔に賽米を供し、涅槃像と澤入塔とを遥拝して下つたから、之を賽米塔(サゴヘノトウ)と呼んだと傅へてゐる」とある。
※「賽米の塔」の所在
みどり市HP「塔ノ沢の石造釈迦涅槃像」の紹介文中に、「賽米之塔(せいまいのとう)」の名称のみの記述はあるものの、正確な位置・高さ・大きさなどについての詳細な記載はない。
編者も上記の岐路をさがし「賽米之塔」の場所を確認したい。。読者・遊子の応援を請う。
沢の奧の方を見ると、例の節理に因て露出した奇岩怪石が乱立して山ツツジの花がこれを飾っていた。
さだめし秋の紅葉も見ものであろう。
引き返して二・三十間進むと、賽米の塔の沢から流れくる支流にあう。
上方十余間の所の両崖は削られたようにそびえ、谷の入り口を作り、その間に河水が流れて瀑布を作っている。その高さ約三間ほどであるが、見てみる価値がある。
これを、地元では「般若の滝」と呼ぶ。
般若の滝
岩澤正作氏が後に著した『黑川狹と澤入塔』には「般若瀧は、字上長手に在り、塔之澤の支流長手川に懸り、高さ約七米許なるも、兩岸迫り石門状をなせる間を落下する處に一顧の價値があり、上流渓中の右岸に浸食を免れてなせる自然の石柱數多屹立して、花崗岩地通有の奇勝をなしてゐる」とある。
般若瀧から寝釈迦
般若の滝の下流をわたり、塔の沢川の右岸に沿って進むと、間もなく左岸に移る。
この辺から道はようやく険しいとまでは言わないが、石ころが多く、歩きにくくなる。
ニリンソウ、ミヤマセントウソウ、ミヤマミヅ、カメバソウ等が見える。ニリンソウはあちこちいたる所に大群落をなして咲いている。ユキザサ、ナルコユリ、クワガタソウ、エンゴサリなども咲いている。ヒトツバカエデ、カンバなどもあった。
二十分あまり進むと、右の支流が流れ込む。本流を渡り支流に沿って少し上がると岐路があって「右、楡沢、足尾道。左、釋迦及び塔の沢道、三丁」と記されている。是より間道楡沢へは一里とちょっとと聞く。
左折して急傾斜の道を上り切ると、左側に巨岩がそびえ立っている。
高さ三丈ばかり。岩の前方は直に塔の沢の谷に落ち込んでいる。岩の横腹を削って道筋をつけ、ハシゴ・鉄鎖を懸け、これを上り切ると岩上に着き、釋迦の仰臥する像が刻してある。
これが「寝釈迦」である。
像は巨岩の上に陽刻され、写真も拓本も不可能である。
その全長一丈二尺六寸、顎より頭までが二尺五寸、耳長一尺三寸、巾五寸、手頸より中指の先まで一尺一寸二分、手巾六寸五分、足巾七寸、台部頭分巾六尺餘、足部巾三尺餘、長さ一丈四尺五寸ばかりである。
寝釈迦
勝道上人が彫った、弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)中この像をみて開眼したとも伝えられる。また徳川初期、幕府の直轄であった足尾銅山に送り込まれ病死した多数の囚人の菩提を弔うために彫られたとも伝えられている。
寝釈迦の制作年代
天明二年(1782)四月、高山彦九郎がこの地を訪れた記『沢入道能記』には、沢入塔と寝釈迦の記述がある。しかし、その8年ほど前の安永3年(1774)に毛呂権蔵が30年間ついやし著した『上野国志』に、寝釈迦の記述はない。
このことから寝釈迦の制作は、宝暦元年(1751)から安永2年(1773)の間に作成されたのであろう
岩の前方にはベニヤシオが咲き乱れ、足下にはヤマザクラが満開である。
岩の北約十度ばかり西には一つのとがった峰を望むことができる。
その西端に突出する岩の辺りを「字サルクラ」と呼ぶという。
これらを西二子山ということを知った。
寝釈迦像の彫られている岩を不動岩という。
この岩から見て北西の方角に、ひときわ高い峰が二子山。水晶山とも言う。
山の稜線の東側 には、猿倉や鷲ノ嶺と言われる小峰がある。
二子山の頂きの東側にサルの横顔にみえる通称「猿岩」と呼ばれる大きな岩が見える。
寝釈迦像の彫られている岩を不動岩という。この岩から見て北西の方角に、ひときわ高い峰が二子山。水晶山とも言う。
山の稜線の東側 には、猿倉や鷲ノ嶺と言われる小峰がある。
二子山の頂きの東側にサルの横顔にみえる通称「猿岩」と呼ばれる大きな岩が見える。
澤入塔
「澤入塔(沢入塔)」は、日光三仏堂の後ろにある相輪塔に似ていることから「相輪塔」と呼ばれる。また「白蛇塔」ともいう。
「白蛇塔」のいわれは、昔々この塔には「白蛇」が住んでいた。
塔が崩れないでいるのは、そこに白蛇をふうじこめてあり、その白蛇が塔を守っているから倒れないという伝承による。
岩澤正作氏が後に著した『黑川狹と澤入塔』には、澤入塔の高さを「五丈八尺」と記している。
(『勢多郡東村村誌』は高さ「18㍍ほど」と記している)
澤入塔は、天狗が小田巻の淵から運んだもので、塔の上部から運んでは次第に積んだもので上部より下部の方が小さいと云われているが、事実はことなる。
寝釈迦から澤入塔を見ると、多重塔形をなし、上部から六層目が最も大く、其の下部が小さくなつているように見える。これは賽米の塔と同様に、節理によりて裂け、周囲も次第に崩落して中心だけが残ったものである。
このように地学的に解剖すると、なんの不思議もないが、めずらしい眺めであることにはちがいない。ことに人工物ではなく、自然物であることに、一層の価値があるのである。